4.3.15

藝術が商業と結びつくことで何が起きるか

瀬戸内ビエンナーレに端を発するアート・プロジェクト、
商業施設のデザインを藝術家が担当するという試み、
さらには美術館への来訪そのものを百貨店と同様に飾るというマーケティング。

いずれも、藝術と日常の融合として、つまりは素晴らしい試みとして語られがちだ。
だが、本当にそうだろうか?
藝術が日常に対置した非日常の創出を目的としているのであれば、
商業のマーケティング手法とぴったり重なるだろう。
しかし、藝術とは本来、非日常を祝祭的に彩ることではないはずだ。
結局のところ、藝術が商業に結びつくのではなく、
商業が藝術を身にまとって、新たな集客の算段としているだけだ。
藝術はうわべで利用されているにすぎない。

むしろ、藝術(特に現代藝術) の試みというのは、
日常に埋没した何かを浮き彫りにして問いかけること、
つまり、日常を異化すること、であるはずだ。
藝術とは、日常を熟考することであり、
日常に取り憑いてそれを換骨奪胎してしまうことだ。
藝術は斥候のように、かくも前衛的でなければならない。

ところで、私は現代建築が好きだ。
それは、建築をそのあり方から突き詰めて考えた上で、
建築を(あるいは住宅を、商業施設を、公共施設を)
再定義しようと試みているからだ。
その意味で、ある種の産業デザインも好ましい。
Appleの製品はラディカルだし、川崎和男の眼鏡も好きだ。
もし皿に描かれた絵が皿というものを問い詰め、
皿を再定義するなら、その皿も好きだ。

もちろん、きっかけが商業主義であっても、
商業主義そのものを離れるほどに、あるいは相対化するほどに、
藝術そのものとして成り立てば、
それは非常に素晴らしい藝術活動となるだろうが。

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