瀬戸内ビエンナーレに端を発するアート・プロジェクト、
商業施設のデザインを藝術家が担当するという試み、
さらには美術館への来訪そのものを百貨店と同様に飾るというマーケティング。
いずれも、藝術と日常の融合として、つまりは素晴らしい試みとして語られがちだ。
だが、本当にそうだろうか?
藝術が日常に対置した非日常の創出を目的としているのであれば、
商業のマーケティング手法とぴったり重なるだろう。
しかし、藝術とは本来、非日常を祝祭的に彩ることではないはずだ。
結局のところ、藝術が商業に結びつくのではなく、
商業が藝術を身にまとって、新たな集客の算段としているだけだ。
藝術はうわべで利用されているにすぎない。
むしろ、藝術(特に現代藝術) の試みというのは、
日常に埋没した何かを浮き彫りにして問いかけること、
つまり、日常を異化すること、であるはずだ。
藝術とは、日常を熟考することであり、
日常に取り憑いてそれを換骨奪胎してしまうことだ。
藝術は斥候のように、かくも前衛的でなければならない。
ところで、私は現代建築が好きだ。
それは、建築をそのあり方から突き詰めて考えた上で、
建築を(あるいは住宅を、商業施設を、公共施設を)
再定義しようと試みているからだ。
その意味で、ある種の産業デザインも好ましい。
Appleの製品はラディカルだし、川崎和男の眼鏡も好きだ。
もし皿に描かれた絵が皿というものを問い詰め、
皿を再定義するなら、その皿も好きだ。
もちろん、きっかけが商業主義であっても、
商業主義そのものを離れるほどに、あるいは相対化するほどに、
藝術そのものとして成り立てば、
それは非常に素晴らしい藝術活動となるだろうが。
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