(昨年の秋頃に読んだ本たち)
岩波新書。
アンソロジーとして手に取りやすく、その割には充実していた。
気に入った歌をここに記しておく。
ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう(岡野弘彦)
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ(東直子)
右翼の木そそり立つ見ゆたまきはるわがうちにこそ茂りたる見ゆ(岡井隆)
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき(香川ヒサ)
ふるさとに母を叱りていたりけり極彩あはれ故郷の庭(小池光)
明日弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく(道浦母都子)
一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり(竹山広)
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり(永井陽子)
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日(永井陽子)
帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり(池田はるみ)
春がすみいよよ濃くなる眞晝間のなにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す(大島史洋)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が(河野裕子)
○石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』
岩波新書。
著者は沖縄出身で戦争を撮り続けた写真家。
戦後、アメリカ軍政に置かれてベトナム戦争の後背の役割を担わされ、
基地排除のために望んだ本土復帰でも基地問題は解決せず、
今は辺野古に揺れる、沖縄の終わらない戦後に対して、
辺野古がまさに戦後の日本のいまであることを、
現実的・日常的にありあまる映像で日本人に突きつける。
○原武史『鉄道ひとつばなし2』
講談社現代新書。
産業史ではなく天皇論、郊外論で語られる鉄道コラムは、
やはりこの著者ならではで面白い。
東急田園都市線の通勤地獄とイメージの乖離、
駅弁や駅そばの画一化、
利用者の減少など、コラム一つずつに濃淡はあれど、
東急田園都市線の通勤地獄とイメージの乖離、
駅弁や駅そばの画一化、
利用者の減少など、コラム一つずつに濃淡はあれど、
ポストバブル期の郊外論が読み取れた。
○五十嵐太郎『現代建築に関する16章』
講談社現代新書。
建築の哲学が概観できるという意味で、入門書的ながら面白い内容だった。
思うに、現代建築はその時代時代の名建築を見てゆくと、
近現代の個人主義が90年代からポストモダンへ移り変わっているさまが、
非常に明確に現われているような気がする。
例えば、先週に博多で訪れた伊東豊雄プロデュースのネクサスシティを見たときに、
場所性や土地色や周囲環境から解放された一個人の追求がされているように感じたが、
それは戦前、戦後から90年代後半までの建築家に
○五十嵐太郎『現代建築に関する16章』
講談社現代新書。
建築の哲学が概観できるという意味で、入門書的ながら面白い内容だった。
思うに、現代建築はその時代時代の名建築を見てゆくと、
近現代の個人主義が90年代からポストモダンへ移り変わっているさまが、
非常に明確に現われているような気がする。
例えば、先週に博多で訪れた伊東豊雄プロデュースのネクサスシティを見たときに、
場所性や土地色や周囲環境から解放された一個人の追求がされているように感じたが、
それは戦前、戦後から90年代後半までの建築家に
一貫するスタンスだったように思われる。
大規模な公共事業ではなく個人邸からスタートした安藤忠雄においても、
「住吉の長屋」はやはりそうだ。
言いかえれば、建築においても、人文学や藝術と同じくして、
90年代後半に大きな物語が終わった、ということではないか。
その後、SANAAに代表されるような溶け込む建築が主流となり、
建築は物語性(ならびに物語に従属する個々人)を演出する装置に転換した。
「住む機械」における個人の優越と、コミュニティ・土地への回帰。
建築家から施主(あるいはその思考の土壌としての社会)へ、主役が変わったのか。
転換なのか、転向なのか、脱却なのか、逃走なのか。
大規模な公共事業ではなく個人邸からスタートした安藤忠雄においても、
「住吉の長屋」はやはりそうだ。
言いかえれば、建築においても、人文学や藝術と同じくして、
90年代後半に大きな物語が終わった、ということではないか。
その後、SANAAに代表されるような溶け込む建築が主流となり、
建築は物語性(ならびに物語に従属する個々人)を演出する装置に転換した。
「住む機械」における個人の優越と、コミュニティ・土地への回帰。
建築家から施主(あるいはその思考の土壌としての社会)へ、主役が変わったのか。
転換なのか、転向なのか、脱却なのか、逃走なのか。
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