31.1.17

町田康訳「宇治拾遺物語」、ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』

町田康訳「宇治拾遺物語」


池澤夏樹個人編集の河出書房新社『日本文学全集』8巻に収録。
町田康の絶妙な翻訳と話の盛り方が、何よりの醍醐味だった。
平安時代の貴族や庶民がみな大阪か京都のそこらへんにいる人たちみたいだ。
古文で短くまとめられた小話が、町田節で盛り付けされていて、
ちょうどよい掌篇のサイズになっている。
そして、関西らしい絶妙な間合いを取って、
ページの中でコントを繰り広げる。

宇治拾遺物語自体がじつはとても人間味あふれる、
庶民的な小話集だったとは知らなかった。
意外と下ネタが多かったりする。
それもまた町田康の文体にマッチしている。


ルイジ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』


光文社古典新訳文庫版。
収録の16篇には2種類あるように思われた。
ひとつは表題作のように、日常のある一瞬が異化されて身に迫る描写。
人生のちっぽけな一コマだが、その浮遊した透明感からか、
普遍性を帯びていて、味わい深かった。
もうひとつは、人の思わぬ一面というか、
煎じ詰めればペソア『不穏の書』のような疲弊、精神分裂、閉塞が覗くような内容を、
重苦しくないがはっとさせられるような小話として、描いている。

ピランデッロは動物も赤ちゃんも大人もあまり分け隔てなく、
みんな生き生きと心の動きを描写する。
「登場人物の悲劇」では、作者が登場人物たちの採用面接を行う描写が出てくるが、
ピランデッロの創作態度はこの譬喩のように、あくまで登場人物本位なのだろう。
『作者を探す六人の登場人物』の作者らしいともいえる。

25.1.17

江戸川乱歩『押絵と旅する男』『人間椅子』『接吻』、平野啓一郎『マチネの終わりに』、林芙美子『或る女』

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

佐野史郎の朗読として聴いたからかもしれないが、
身に迫る怪奇譚だった。
ただ、愛に身を捧げる一途は、怪奇だろうと心に沁みる。

ぞっとする、嬉しい、というような未分な感情の形容が多かったが、
雑ではなく、都度そこにぴったりと収まる感情が示唆されていた。
むしろ、理性を超えてぐっと身に迫るために、
分析的な形容詞はそぐわないのかもしれない。

あまり怪奇小説は読まないが、
読後、夢野久作もまた書簡体の小説ばかりだったことを思い出した。
枠内物語となっている小説は少なくない。
独白調の散文が物語る行為を取り戻そうとする試みなのかもしれない。
特に、怪奇小説は現実との落差を埋めるべく、
物語をはめ込む枠物語が求められるのかもしれない。


江戸川乱歩『人間椅子』

同じく、佐野史郎の朗読。
涎のような願望が丁寧な口調で独白されるからか、
椅子の内側から感じる人間の肉感が生々しい。
快楽をしゃぶるような物語だから、
個人的には、ぞっとする恐怖ものというより放埒として楽しめた。


平野啓一郎『マチネの終わりに』

たった三回の邂逅で、出会い、すれ違って別れ、想い続ける。
この美しい物語そのものが、まずおもしろかった。
ただそれだけの物語の骨格が、心に残る。
すれ違って壊れた関係がじくじくと痛むさまは、美しい。
『シェルブールの雨傘』や『パリ、テキサス』がそうであるように。

メールのやりとりがすれ違ってゆくくだりは読ませる。
「氷塊」や「閉じ込められた少年」で魅せた言葉遊び的な技巧あってだろう。
だが、ストーリーにおいて、この下りはほんの一瞬でありながら、物語の核でもある。
それまでに築いた関係性は、邂逅とスカイプと長いメールという、
いわば前・電子時代の言葉を尽くした会話でなされている一方で、
短いメールのやりとりが、一瞬にして関係をぎくしゃくさせ瓦解させる、
この現代的な危うさは、意外にも文学は取り上げてこなかったのではないか。

平野啓一郎の現代ものは、あたかも人生を試している。
この読後感は、『決壊』を読んだときと同じだ。
それにしても、登場人物がみなそれぞれの生き方で立派だ。
中身がある。言葉が中身を満たしている。
語りえない領分がない。
(欲しがり過ぎかもしれないが、それが何か物足りない)


江戸川乱歩『接吻』

二宮隆による朗読。

若しも、例の鏡のトリックが、彼女の創作であったとしたらどうだ。そして、彼女が接吻し、抱きしめたのは、やっぱり村山課長の写真であったとしたらどうだ。
と、この終盤の、はぐらかすような問いかけ。
そして、こう結ばれる。
それは兎も角男である山名宗三には、そこまで邪推をたくましくする陰険さはなかったのである。

この結びの言い回しを借りれば、
江戸川乱歩が描く怪奇譚は、けだし、
「お人好し」と「陰険」の間を突くような物語だ。
「陰険」を煽るクライマックスを見せておいてから、
フィクションをチラつかせたり枠物語の語り手が自ら合点したりして、
読者の「お人好し」な素直な了解へと安心させる。
実際、これまで読んだ(聴いた)江戸川乱歩はいずれも、
多かれ少なかれ世話話的、人情話的な趣があった。


林芙美子『或る女』

 海渡みなみによる朗読。

初出は1938年ということで、
小説の主題を据えるにはなんとも絶妙な暗い時代だ。
主人公のたか子は名流婦人としてメディアにもてはやされるが、
結局それはたか子の生きがいでも幸せでもなくて、
夫には妻らしさを、息子には母らしさを強いられて、
家庭では立場を完全に失いつつある。

女性の生き方の苦しみとは、社会と家庭からの疎外であり、
男たちが建前と折りあいをつける上での板挟みなのだ、
そう読んだ。
時代は進んだのかもしれないが、
別のところで足踏みしているだけなのかもしれない。

13.1.17

バルザック『「絶対」の探求』、山本理顕『権力の空間/空間の権力』、カルヴィーノ『遠ざかる家』、堀辰雄『姨捨』

オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』

岩波文庫版。水野亮訳。
1978年改訳ということだったが、光文社古典新訳文庫より読みにくかった。

まず、化学探究に現を抜かした伯爵バルタザールと、
老いた召使いの協力者ルミュルキニエがいる。
対して、家計浪費をごうとする妻のクラース夫人や娘マルグリットがいる。
そして、その対立軸を動かすための、もろもろの取り巻き。
心理描写や葛藤というより、登場人物がみな自らの使命に徹底していて、
状況や力関係や立場が少しずつ変わるたびに、各関係が確認される、
というストーリー展開だった。

バルザックの作品はどれも、経済小説という感じがする。
その中でもこの作品はやや特異なのかもしれない。
伯爵一家の厖大な財産が幾度か傾いては立て直されるので、
フランドル建築の屋敷の表情もまた、一つの物言わぬ主人公のようだ。
屋敷は中世らしい質実剛健の外構えで、高級な調度什器を収めている。
だが、ノール県ドゥエーという進歩的できらびやかな町の真ん中にある。
ちぐはぐな立地がまず時代の狭間を感じさせ、そして物語を揺らす両軸を暗示する。

最終盤、娘夫妻がスペイン伯領を相続するに伴う長期外遊の裏で、
屋敷内部のもろもろがバルタザールの研究費捻出のため売り払われる。
娘夫妻の帰郷後に復旧されてからバルタザールが老いて死ぬ、という筋立ては、
中世封建主義と世俗的金銭感覚が体面を気にして近代科学主義を殺し、
「絶対」へのひらめきは探求される直前に失われる、ということになろうか。
時代推移のもどかしさというか、現実はいつも背後につきまとっているというか、
そんな卑俗さが描く偉大な科学者像は、いかにもバルザックらしい。


山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』

2015年刊行。講談社選書メチエ。

SANAAや藤本壮介のような、建築が社会性を取り戻そうとする意思には、
その問題意識と行動の必要性は痛切に理解する。
一方で、使われない集会所やシャッター商店街を思えば、
都市の地域性や社会性の欠如は、各建築(家)が取り組みようもないくらい、
日本人の意識下に潜む根深い問題なのではないか、
そう痛切に感じざるをえない。
日本人は、人付き合いや地域社会を、ひいては地方自治体、代議制、政治を、
どうでもいいと思っている、いや、何とも思っていないのではないか、と。
安全で快適であれば壁の外はどうでもよくて、
それを保障する財とサービスが潤沢であれば良いと考えていないか、と。
ニュータウンという問題は、建築や都市の設計の問題ではなく、
運営の問題ではないか、と。

本書はその漠然とした思いに対して、一定の解を示してくれた気がする。
古代ギリシャのポリス社会の「閾」の空間を挙げ、
個々人が社会に根を下ろす仕組みがあった、という反面、
現代のプライバシーありきの建築は産業革命以降の労働者住宅に始まり、
家族はそれぞれ社会と結びつかずに孤立するよう設計されている、と。
住民が主体的に町づくりに取り組む制度なくして、
社会は個々人のかけがえのない居場所としての、世界としての復権をなさない。 


イタロ・カルヴィーノ『遠ざかる家』

和田忠彦訳。原題は「建築投機」。

第二次大戦後、宅地開発の急速に進む町で、
主人公一家が土地を売って家を建てる、
その業者との先の見えない悶着が、主題となっている。
しかし、主人公はふと出会う人々とのかつてのパルチザン活動を
どちらかといえば思い出したくない過去として疎んだり、
社会運動をやりかけてはきらびやかで表面的な映画業界に足を突っ込んだり。
戦争の終わりとともに時代は一変し、
左翼は急速に鼻白むような上っつらな振る舞いになり、
人々は、生臭いカネにたくましく群がって生きてゆく。

切り売りされる土地に初め生えていた草花が、
片田舎の殺伐とした風景にささやかな色と落ち着きを与えるが、
それが狭く植え替えられ、建物の工事ですっかり陰に隠されてしまう。
何十年も経てばおそらく、町は無機質な家が立ち並ぶ新興住宅地となり、
かつてレジスタンス運動と政治に命をかけた息づかいは跡形もない。
戦争の終わりで、価値観がまったく異質なものに変化したかのように、
片田舎はカネの論理で、都市近郊の小ざっぱりした町へ変貌しつつある。
主人公だけは、"時代そのものの転向"に戸惑っている様子だが、
町の人々は、どちらの時代でも結局は変わらず、
生きるのにしたたかで愚直なのだ。
そして、主人公の投機たる家の建設だけは、のろのろとしか進まない。
建設中の家のせいで、草花は陽が当たらなくなっている。

カルヴィーノがこんなにも地に足のつきすぎた小品をも書いているなんて、
まったく知りもしなかった。
ここで描かれる戦後まもない復興期イタリアは、
まるで中野重治の描く日本と同じ、やるせない戦後の虚無感だ。
戦後が一気に放出した、思想のなさ、下品さ、大衆性、は、何なのか?
そんな問いを、奇妙な読後感とともに残す小説だった。


堀辰雄『姨捨』

青空朗読版。
『かげろふの日記』のように、
古典の中に近現代らしい自己めいたものを凝らせた作品、
それを期待したところが、そうではなかった。
個性のないほどの平凡を愛でて愛でて輝かせるような、
物語らしさ、劇的なもの、のないところにわずかな物語を見出だすような、
デュシャン的な試みなのか。