13.1.17

バルザック『「絶対」の探求』、山本理顕『権力の空間/空間の権力』、カルヴィーノ『遠ざかる家』、堀辰雄『姨捨』

オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』

岩波文庫版。水野亮訳。
1978年改訳ということだったが、光文社古典新訳文庫より読みにくかった。

まず、化学探究に現を抜かした伯爵バルタザールと、
老いた召使いの協力者ルミュルキニエがいる。
対して、家計浪費をごうとする妻のクラース夫人や娘マルグリットがいる。
そして、その対立軸を動かすための、もろもろの取り巻き。
心理描写や葛藤というより、登場人物がみな自らの使命に徹底していて、
状況や力関係や立場が少しずつ変わるたびに、各関係が確認される、
というストーリー展開だった。

バルザックの作品はどれも、経済小説という感じがする。
その中でもこの作品はやや特異なのかもしれない。
伯爵一家の厖大な財産が幾度か傾いては立て直されるので、
フランドル建築の屋敷の表情もまた、一つの物言わぬ主人公のようだ。
屋敷は中世らしい質実剛健の外構えで、高級な調度什器を収めている。
だが、ノール県ドゥエーという進歩的できらびやかな町の真ん中にある。
ちぐはぐな立地がまず時代の狭間を感じさせ、そして物語を揺らす両軸を暗示する。

最終盤、娘夫妻がスペイン伯領を相続するに伴う長期外遊の裏で、
屋敷内部のもろもろがバルタザールの研究費捻出のため売り払われる。
娘夫妻の帰郷後に復旧されてからバルタザールが老いて死ぬ、という筋立ては、
中世封建主義と世俗的金銭感覚が体面を気にして近代科学主義を殺し、
「絶対」へのひらめきは探求される直前に失われる、ということになろうか。
時代推移のもどかしさというか、現実はいつも背後につきまとっているというか、
そんな卑俗さが描く偉大な科学者像は、いかにもバルザックらしい。


山本理顕『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』

2015年刊行。講談社選書メチエ。

SANAAや藤本壮介のような、建築が社会性を取り戻そうとする意思には、
その問題意識と行動の必要性は痛切に理解する。
一方で、使われない集会所やシャッター商店街を思えば、
都市の地域性や社会性の欠如は、各建築(家)が取り組みようもないくらい、
日本人の意識下に潜む根深い問題なのではないか、
そう痛切に感じざるをえない。
日本人は、人付き合いや地域社会を、ひいては地方自治体、代議制、政治を、
どうでもいいと思っている、いや、何とも思っていないのではないか、と。
安全で快適であれば壁の外はどうでもよくて、
それを保障する財とサービスが潤沢であれば良いと考えていないか、と。
ニュータウンという問題は、建築や都市の設計の問題ではなく、
運営の問題ではないか、と。

本書はその漠然とした思いに対して、一定の解を示してくれた気がする。
古代ギリシャのポリス社会の「閾」の空間を挙げ、
個々人が社会に根を下ろす仕組みがあった、という反面、
現代のプライバシーありきの建築は産業革命以降の労働者住宅に始まり、
家族はそれぞれ社会と結びつかずに孤立するよう設計されている、と。
住民が主体的に町づくりに取り組む制度なくして、
社会は個々人のかけがえのない居場所としての、世界としての復権をなさない。 


イタロ・カルヴィーノ『遠ざかる家』

和田忠彦訳。原題は「建築投機」。

第二次大戦後、宅地開発の急速に進む町で、
主人公一家が土地を売って家を建てる、
その業者との先の見えない悶着が、主題となっている。
しかし、主人公はふと出会う人々とのかつてのパルチザン活動を
どちらかといえば思い出したくない過去として疎んだり、
社会運動をやりかけてはきらびやかで表面的な映画業界に足を突っ込んだり。
戦争の終わりとともに時代は一変し、
左翼は急速に鼻白むような上っつらな振る舞いになり、
人々は、生臭いカネにたくましく群がって生きてゆく。

切り売りされる土地に初め生えていた草花が、
片田舎の殺伐とした風景にささやかな色と落ち着きを与えるが、
それが狭く植え替えられ、建物の工事ですっかり陰に隠されてしまう。
何十年も経てばおそらく、町は無機質な家が立ち並ぶ新興住宅地となり、
かつてレジスタンス運動と政治に命をかけた息づかいは跡形もない。
戦争の終わりで、価値観がまったく異質なものに変化したかのように、
片田舎はカネの論理で、都市近郊の小ざっぱりした町へ変貌しつつある。
主人公だけは、"時代そのものの転向"に戸惑っている様子だが、
町の人々は、どちらの時代でも結局は変わらず、
生きるのにしたたかで愚直なのだ。
そして、主人公の投機たる家の建設だけは、のろのろとしか進まない。
建設中の家のせいで、草花は陽が当たらなくなっている。

カルヴィーノがこんなにも地に足のつきすぎた小品をも書いているなんて、
まったく知りもしなかった。
ここで描かれる戦後まもない復興期イタリアは、
まるで中野重治の描く日本と同じ、やるせない戦後の虚無感だ。
戦後が一気に放出した、思想のなさ、下品さ、大衆性、は、何なのか?
そんな問いを、奇妙な読後感とともに残す小説だった。


堀辰雄『姨捨』

青空朗読版。
『かげろふの日記』のように、
古典の中に近現代らしい自己めいたものを凝らせた作品、
それを期待したところが、そうではなかった。
個性のないほどの平凡を愛でて愛でて輝かせるような、
物語らしさ、劇的なもの、のないところにわずかな物語を見出だすような、
デュシャン的な試みなのか。

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