江戸川乱歩『押絵と旅する男』
佐野史郎の朗読として聴いたからかもしれないが、身に迫る怪奇譚だった。
ただ、愛に身を捧げる一途は、怪奇だろうと心に沁みる。
ぞっとする、嬉しい、というような未分な感情の形容が多かったが、
雑ではなく、都度そこにぴったりと収まる感情が示唆されていた。
むしろ、理性を超えてぐっと身に迫るために、
分析的な形容詞はそぐわないのかもしれない。
あまり怪奇小説は読まないが、
読後、夢野久作もまた書簡体の小説ばかりだったことを思い出した。
枠内物語となっている小説は少なくない。
独白調の散文が物語る行為を取り戻そうとする試みなのかもしれない。
特に、怪奇小説は現実との落差を埋めるべく、
物語をはめ込む枠物語が求められるのかもしれない。
江戸川乱歩『人間椅子』
同じく、佐野史郎の朗読。涎のような願望が丁寧な口調で独白されるからか、
椅子の内側から感じる人間の肉感が生々しい。
快楽をしゃぶるような物語だから、
個人的には、ぞっとする恐怖ものというより放埒として楽しめた。
平野啓一郎『マチネの終わりに』
たった三回の邂逅で、出会い、すれ違って別れ、想い続ける。この美しい物語そのものが、まずおもしろかった。
ただそれだけの物語の骨格が、心に残る。
すれ違って壊れた関係がじくじくと痛むさまは、美しい。
『シェルブールの雨傘』や『パリ、テキサス』がそうであるように。
メールのやりとりがすれ違ってゆくくだりは読ませる。
「氷塊」や「閉じ込められた少年」で魅せた言葉遊び的な技巧あってだろう。
だが、ストーリーにおいて、この下りはほんの一瞬でありながら、物語の核でもある。
それまでに築いた関係性は、邂逅とスカイプと長いメールという、
いわば前・電子時代の言葉を尽くした会話でなされている一方で、
短いメールのやりとりが、一瞬にして関係をぎくしゃくさせ瓦解させる、
この現代的な危うさは、意外にも文学は取り上げてこなかったのではないか。
平野啓一郎の現代ものは、あたかも人生を試している。
この読後感は、『決壊』を読んだときと同じだ。
それにしても、登場人物がみなそれぞれの生き方で立派だ。
中身がある。言葉が中身を満たしている。
語りえない領分がない。
(欲しがり過ぎかもしれないが、それが何か物足りない)
江戸川乱歩『接吻』
二宮隆による朗読。若しも、例の鏡のトリックが、彼女の創作であったとしたらどうだ。そして、彼女が接吻し、抱きしめたのは、やっぱり村山課長の写真であったとしたらどうだ。と、この終盤の、はぐらかすような問いかけ。
そして、こう結ばれる。
それは兎も角男である山名宗三には、そこまで邪推をたくましくする陰険さはなかったのである。
この結びの言い回しを借りれば、
江戸川乱歩が描く怪奇譚は、けだし、
「お人好し」と「陰険」の間を突くような物語だ。
「陰険」を煽るクライマックスを見せておいてから、
フィクションをチラつかせたり枠物語の語り手が自ら合点したりして、
読者の「お人好し」な素直な了解へと安心させる。
実際、これまで読んだ(聴いた)江戸川乱歩はいずれも、
多かれ少なかれ世話話的、人情話的な趣があった。
林芙美子『或る女』
海渡みなみによる朗読。初出は1938年ということで、
小説の主題を据えるにはなんとも絶妙な暗い時代だ。
主人公のたか子は名流婦人としてメディアにもてはやされるが、
結局それはたか子の生きがいでも幸せでもなくて、
夫には妻らしさを、息子には母らしさを強いられて、
家庭では立場を完全に失いつつある。
女性の生き方の苦しみとは、社会と家庭からの疎外であり、
男たちが建前と折りあいをつける上での板挟みなのだ、
そう読んだ。
時代は進んだのかもしれないが、
別のところで足踏みしているだけなのかもしれない。
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