27.2.17

磯達雄・宮沢洋『日本遺産巡礼 西日本30選』『日本遺産巡礼 東日本30選』、元少年A『絶歌』

磯達雄・宮沢洋『日本遺産巡礼 西日本30選』『日本遺産巡礼 東日本30選』

昭和モダン建築巡礼は日経ビジネスオンラインで連載されていたから、
リアルタイムではなかったかもしれないが読んでいた。
菊竹清訓の「都城市民会館」や吉阪隆正の「大学セミナー・ハウス」は、
その思想に驚かされた記憶がまだ残っている。
それまで、「せんだいメディアテーク」が伊東豊雄の設計とさえ知らず、
鬼頭梓の「東北大学附属図書館本館」の暗い内部をバカにしていたほどだから、
この両名の連載が自分の建築好きを芽吹かせた可能性は高い。

さざえ堂は同じ一連の連載として読んでいたような記憶があった。
大湯環状列石や龍安寺石庭まで解説してしまうのだから、
建築というものがいかに人間の営みに深く結びついているか思い知らされる。
建築とは、空間を内外に分かつだけではない。
漠然として捉えどころのないはずの空間を人間が律する営みそのものだ。
だから、そこに美意識や思想が必ず現れるし、
それを読み解く批評眼が豊かであればあるほど楽しめる。

この連載は、建築物の構造、背景、歴史をすべてごった煮的に描きながら、
それを驚き、楽しみ、考えているから、読んでいて面白い。


元少年A『絶歌』

筆致は肌のようなもので、筆者のいろいろがわかる。
そこそこの読書量、語りたい衝動、
客観的であろうとしてもなお強烈な自意識、しかし乏しい感情、
生へのためらいつつもはっきりした意思。
装い、本音。
元少年A……1997年に酒鬼薔薇聖斗と名乗った中学生だ。

そのナイーブすぎる内面にとって、現代社会の何がまずかったのか。
それは結局わからない。
団地という漂白空間で、生命の不思議や人間関係の容赦なさを嗅ぎとる感性だから、
感じるすべてが鮮明に迫り来て、輪郭がぎらぎらして感じられるのだろう、
その芸術家肌の感覚を有しているらしいことが、やはり垣間見えたまでだ。
無論、当人は一生の罪を背負って、何かのせいにはできないだろう。
だが、本人の語りから、状況というか、何か透けて見えはしないか。
そう期待を込めて読んだものの、あまりよくわからなかった。

物語への意欲があることが、驚きだった。
苦しみの渦中を必死に生き抜いて、物語らずにはいられないのかもしれない。
また、言葉の未分のまま感じ取ることができず、掌中に収めたい願望が、
いまだ旺盛なのかもしれない。
が、それ以上に、読んでほしい願望があった。
確かに、上手に書けていて、読ませる。
個人の来歴だから、大きな物語では全くない。
かといって、私小説のような、見せつけるような下心ではない。
言葉で整理した身体が地にひれ伏すような、言外に常に釈明する下心のあるような、
そんな文章だった。

25.2.17

坂口安吾「アンゴウ」「恋愛論」「行雲流水」、江戸川乱歩「心理試験」「一人二役」

坂口安吾「アンゴウ」

萩柚月による朗読。

ふと古書店で見つけたかつての蔵書に挟まれていた暗号文から、
自らの生きざまを見出だしてゆく。
そして、結末はなんとも物がなしい。
暗号文で語り始められた短篇の行き着く結末とは思えない。
無批判なまま受け容れている表面的な日常を一枚剥ぎ取れば、
過去があり人生があり、はっとするような気づきがある、
そのような、過去と現在を掘り下げるような感覚。


坂口安吾「恋愛論」

物袋綾子による朗読。

恋愛について語るというより、
恋愛を例にして日本語のあいまいさに言及する。

安吾は文化を内面化した枠組み・軛のように捉えていて、
手放しで賛美することはしない。
そして、枠組みは無意識にではなく明確に語られなくてはならない、
そう曖昧な文化たる日本に対して語りかける。
その視点がある種の西洋中心主義になっているのは時代性かもしれないが、
普段のなにげない感性への良い毒になって、おもしろい。


坂口安吾「行雲流水」

萩柚月による朗読。

安吾らしいグロテスクさもさることながら、
1949年発表というだけあって、生きるためのむきだしの必死さが清々しい。
やはり安吾は大衆を視ている。


江戸川乱歩「心理試験」

二宮隆による朗読。
いかにも探偵小説という作品だった。
当時、心理分析はまったく目新しかっただろうが、
文学が輸入を担うということが、興味深いといえば興味深い。
むしろ、物語が解剖され分析されるという文学にとって危うい事態を、
作品化することで内包してしまい、新たな語りの手段としてしまう、
そのことがユーモアというか、面白いと思った。
物語は技術によって廃れるどころか富む、
いやむしろ、物語はいかなる時代や境遇でも、そこに在るのだ。

江戸川乱歩「一人二役」

喜多川拓郎による朗読。
まぁ、ちょっとした奇譚、といった作品。

11.2.17

トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』、坂口安吾「夜長姫と耳男」「神サマを生んだ人々」「餅のタタリ」、太宰治「駈込み訴え」

レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』

講談社古典新訳文庫版。望月哲男訳。

トルストイが人生とは何かを真っ向から挑んでいるとは知っていても、
かくも現代的でリアリスティックだとは知らなかった。

「イワン・イリイチの死」は、
常に手許に置いておいて拾い読みしても、都度楽しめる気がする。
というのは、病の進行の一瞬一瞬に即した描写と心境が、
あまりに的確であり、言い得て妙であり、
まるでルポルタージュのようだからだろう。

「クロイツェル・ソナタ」は、
剣がコルセットを貫く手触りの描写が、読後の頭にこびりついている。


坂口安吾「夜長姫と耳男」

萩柚月による朗読。

昔語りのような語り口でありながら、
耳男の耳は削ぎ落とされるし、蛇が裂かれるし、
あげくの果てには村人たちが物語背景で死んでゆく。
それでいて、登場人物はみなそれぞれに一つの心理で動き、
内面の葛藤があるわけでもないから、やはり説話だ。
『桜の花の満開の下』の戦慄を思わせる。
あるおそるべき世界のさまを描き出すための小説、
物語としてというよりは、絵物語のような小説。
人がみなどことなくユーモラスなのに、
筋立ての容赦のなさ、読後に感じる背筋の寒々しさ。
安吾らしいなのか、戦後の空気感なのか。
あるいは、近代以前の土着の凄みなのか。

そういえば、安吾には「終戦」ではなく
「敗戦」「焼け野原」の語のほうが似合う。
美化を一切許さず、直視しなければならない視線が。



坂口安吾「神サマを生んだ人々」

萩柚月による朗読。

新興宗教が流行した戦後の時代を感じもするが、
万世一系の宗教から醒め切らない時代への当てこすりか。
地口も登場人物もみな一様に、新興宗教を一笑に付しながら、
興味本位が物語を進めている。
その点、文学がジャーナリスト的な面で押している感じだ。

安福軒という男にスポットが当たって、小説は終わる。
教祖をかつて妾として囲っていた男、
教団の幹部ながらビジネスと割り切っている男だ。
この地に足のついて離れない冷徹な生き様を描く目は、
焼け野原を目のあたりにした視点だと感じてしまう。


坂口安吾「餅のタタリ」

萩柚月による朗読。

何ともバカバカしい話、「風博士」さながらだ。
ただ、もしかすると元ネタがあるかもしれない説話らしさがある。
いや、あるとすれば、現代という村社会か。


太宰治「駈込み訴え」

西村俊彦による朗読。

イエスへのひたむきな愛とその報われなさを、
イスカリオテのユダが独り語りに訴える。
神への愛でも隣人愛でもなくイエスへの愛に満ちるがために、
弟子でありながらイエスから遠ざけられ、妬みでイエスを売る、
そのズレが走らせる物語の運びは、
マルタの妹マリアの話や、最後の晩餐の話へうまく結びついていて、
さながらユダという男の新釈だった。

その鬼気迫る独り語りは、朗読ということもあって、凄かった。