25.10.17

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

短歌研究社刊。斉藤斎藤の第二歌集。
2004年から2015年までの時系列で、収められている。

初めのほうは第一歌集と同じく、
日常の一コマが自我を無意識から掬い上げて揺さぶるような歌風だった。

が、2005年の途中あたりから、主題が社会的になり、
詠み手の心の余裕がなくなってゆく。
というか、なんとなく受け身だった詠み手が、主題への評価を露わにし始める。
明らかな作風の変化は驚いたものの、読み進めるうち、
社会に対してコミットしようと取り巻きつつも日常が邪魔してできないという
現代人らしすぎるほど現代人らしい、カジュアルだが根の深い苦悩に途方にくれている。
宅間守について考えたり、人体の不思議展に行ったり、
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番にではない
(p.106、「人体の不思議展(Ver 4.1)」より)
野宿者問題に触れたり。
こんなニッポンをあっためてゆくの大変ねここはシベリアのように寒いね
(p.148、「ここはシベリアのように寒いね」より)

3.11以降、主題は東日本大震災へ移る。
うさぎ追いませんこぶなも釣りません もう しませんから ふるさと
(p.156、「もう しませんから」より)
この深刻な孤独。家族や周囲の他人はもういない。
斉藤斎藤は斉藤でも斎藤でもなくなってしまったようだった。
途中から「斎」が物忌みの意だと自覚しているように思えてならなかった。

2005年からの詠み手による客体の彷徨は、
視線を徐々に定める。原発へ、原爆へ、広島へ。
だが、大きな物語が生き返らなかったように、
絞ったはずの照準は時によって漂流し、
津波と避難で流されたモノだけが転がっている。
この徒労感、寂しい悔しさ。
どうしようもなくちっぽけで虚しい共感だが、それでも共感した。
似たような気持で、地震と津波、そして原発の時間を視た人がいたんだ、と。

12.10.17

『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』

田中淳一訳。水声社刊。
原題は« Tokyo Infra-ordinaire »。
ジョルジュ・ペレックの« L'Infra-ordinaire »にひっかけてある。
タイトルのごとく、東京の平凡な日常へと目を凝らす。

記述は入れ子状で、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を思わせる。
ただ、下位層は上位層への説明であると同時に、軽い反駁、自問、脱線だ。
訳者は「「カッコ」と「挿入」を多用し、濫用し」と解説している。
主題はまっすぐに進行せず、どんどん横滑りしてゆく。
しかも主題はアジア都市・東京であるからすでに支離滅裂だ。
五感と筆の赴くままの語りが、不思議と都市によって織り成されている、
そのような感じの文章だった。

旅に行きたくなるような作品(小説? 随筆?)だった。
ルーボーは日本語を解さないため、
東京に満ちた言葉は音となり、文学の詩句へつながる。
また、山手線(と、一部で丸ノ内線)に運ばれてゆく視覚は、
おそらく万物が雑多にぶちまけられたカンバスのようなのだろう。
何に驚き、何に連想を繋げるかは、まさに作者の自由。
この筆のすさびこそ、旅そのものではないか。

11.10.17

莫言『転生夢現』

中央公論新社刊。
吉田富夫による臨場感のある口語っぽい訳が読みやすかった。

1950年から2000年までの中国の一村の物語。
主人公の西門鬧が冤罪の恨みとともにロバ、牛、豚、犬、猿を輪廻しながら、
文化大革命から改革開放までの歴史に翻弄される一族を俯瞰する。

壮大な群像劇であり、まさに歴史だった。
瀕死の牛が飼い主の土地まで歩んでから死ぬシーンや、
二匹の豚が観衆の歌う真ん中で頂上を争って戦うシーンや、
いくつもの情景が心に残った。
常に時代々々の大義と情が人を突き動かし、
登場人物たちは出世と左遷を経めぐり、立場をぐるぐる上下させながら、
自らの役を命がけで演じる。
人民公社、党内の地位、情愛、……。
語り手の回想だけが歴史を達観するが、
進行中の歴史は最重要な今でしかない。
そして、今はいずれ無価値に打ち棄てられるか、時によって和解されてゆく。
人間への賛歌なのか、永劫回帰の哀しみなのか。
歴史の暴力と無情を肌身で語る物語は、いずれをも超えてひたすら語り続ける。