短歌研究社刊。斉藤斎藤の第二歌集。
2004年から2015年までの時系列で、収められている。初めのほうは第一歌集と同じく、
日常の一コマが自我を無意識から掬い上げて揺さぶるような歌風だった。
が、2005年の途中あたりから、主題が社会的になり、
詠み手の心の余裕がなくなってゆく。
というか、なんとなく受け身だった詠み手が、主題への評価を露わにし始める。
明らかな作風の変化は驚いたものの、読み進めるうち、
社会に対してコミットしようと取り巻きつつも日常が邪魔してできないという
現代人らしすぎるほど現代人らしい、カジュアルだが根の深い苦悩に途方にくれている。
宅間守について考えたり、人体の不思議展に行ったり、
3.11以降、主題は東日本大震災へ移る。
というか、なんとなく受け身だった詠み手が、主題への評価を露わにし始める。
明らかな作風の変化は驚いたものの、読み進めるうち、
社会に対してコミットしようと取り巻きつつも日常が邪魔してできないという
現代人らしすぎるほど現代人らしい、カジュアルだが根の深い苦悩に途方にくれている。
宅間守について考えたり、人体の不思議展に行ったり、
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番にではない
(p.106、「人体の不思議展(Ver 4.1)」より)
野宿者問題に触れたり。
こんなニッポンをあっためてゆくの大変ねここはシベリアのように寒いね
(p.148、「ここはシベリアのように寒いね」より)
うさぎ追いませんこぶなも釣りません もう しませんから ふるさと
(p.156、「もう しませんから」より)
この深刻な孤独。家族や周囲の他人はもういない。
斉藤斎藤は斉藤でも斎藤でもなくなってしまったようだった。
途中から「斎」が物忌みの意だと自覚しているように思えてならなかった。
2005年からの詠み手による客体の彷徨は、
視線を徐々に定める。原発へ、原爆へ、広島へ。
だが、大きな物語が生き返らなかったように、
だが、大きな物語が生き返らなかったように、
絞ったはずの照準は時によって漂流し、
津波と避難で流されたモノだけが転がっている。
この徒労感、寂しい悔しさ。
どうしようもなくちっぽけで虚しい共感だが、それでも共感した。
似たような気持で、地震と津波、そして原発の時間を視た人がいたんだ、と。
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