25.12.17

「いま東京と東京論を問い直す」、ルソー『孤独な散歩者の夢想』

門脇耕三、中川大地、速水健朗、藤村龍至、宇野常寛「いま東京と東京論を問い直す 首都機能から考える21世紀日本」

宇野常寛編集の雑誌『PLANETS』Vol.8収録の対談で、kindle版の抜刷(?)。
各論客それぞれの出身フィールドが着眼点の違いとなって現れていて、
なかなか読ませる内容だった。

文化を育む「土地」の個性(新宿、渋谷、代官山など)が喪われて
無個性な「ハコ」に取って代わるという現象と、
再開発により「建築と文化の関係だけが問題となる状況が反復する」(p.254)
という現象が、指摘されていた。
そして、後者は結局、新しい文化の創造にならず、懐古趣味にすぎない、と。
事実、渋谷ヒカリエの「8/」の残念さはよく憶えている。
容積率の緩和により、建物は一つの都市を内包して久しい
(いま、「シムシティ2000」のアルコロジーを思い出した)。
それが流行として登場し、消費され陳腐化する、その反復。
結局、それは文化(ムーブメント)ではなく、
マーケティングが散発する差異でしかない。

実際の土地性はあんがい小学校の評判のような生活インフラで決まるのではないか、
という指摘は、ちっぽけな結論のようで本質的に思われた。
強く実感したためでもある。
ただ、そうすると、もはや東京論ではない。

文化が土地や建築という場所から解放された以上、
東京が文化においていかにして可能なのか?
私見だが、むしろ、昨今の「文化」とされる社会現象とその流布をみるに、
東京が文化を装ってきたという構造が露呈したように思われる。
つまり、東京という都市の本質は本社機能であって、
それは今も昔も変わらない。
ただ、かつては文化という媒体を介して大衆に働きかけてきたが、
いまや大衆はマーケティング分析の対象としてはあまりに離散した。
よって、東京は巨大である以外に特徴のない都市でしかない。
巨大さが微細なマーケットをそこそこのサイズにする、というだけだ。
この作用は、東京の本社機能と相互関係にある。

ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』

光文社古典新訳文庫版・kindle版。永田千奈訳。

ルソーの血の通った人間味が溢れていて、おもしろかった。
老いて孤立するということは、辛いことに違いない。
それでもなお、自らを客観視し、よく分析し、律することのできる、
そのような精神の強靱さは驚かされる。
逆境によって 、私たちは自分への回帰を余儀なくされる。自分に向き合わざるをえなくなるからこそ、多くの人は逆境をつらいものと感じるのだろう。
(2017ページ)
どんな状況であれ、いつも利己愛が人を不幸にしているのである。
(2126ページ)
歳をとってから読み返したい一冊だ。

18.12.17

バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』、ジェイムズ『ねじの回転』

オノレ・ド・バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』

光文社古典新訳文庫版をKindleで。
訳者は放送大学の講座でおなじみの宮下志朗先生。

人間模様を描きながらも多かれ少なかれ金がものをいうところが、
バルザックらしくて面白かった。
表題作を含めて5作品、うち4作品が短篇小説で、
いずれもストーリーは単純ながら人間描写が生き生きしている。
バルザックを読むとなれば、やはりこの語り口のスピード感、読ませる感じこそだ。
人物や心理の描写は大まかながら「ほらわかるでしょう」と想像させつ、
行動や駆け引きがさらに人物を浮き彫りにする。


ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』

こちらも、光文社古典新訳文庫版をKindleで。
土屋政雄訳。
あとがきによると難解な文体だそうだが、比較的読みやすかったのは訳者の巧手ゆえか。

屋敷に現れる幽霊と子どもたちの交流とは何か、幽霊は虚妄なのか。
謎が物語の中心に太く据えられているにもかかわらず、
謎は最後まで謎で終わり、ゆえに解釈は多義的になる。
読後の後味が、岡田利規『部屋に流れる時間の旅』を連想した。

4.12.17

テジュ・コール『オープン・シティ』

文学が都市を描く手法として、このような散文詩みたいなやり方があることに驚いた。
語り手は一人の感覚器のように、都市を歩き回り、あちこちを訪いながら、
何がしかを想い、繋ぎ、過去を去来し、噛みしめる。
その意識の流れは誰もがなじみ深く、よって追体験できる。
また、内容は個人的ながら同時代的な事象であり、つまり社会的。
かくして、語り手の個性は、都市生活と現代という場に離散し、普遍性を得る。

舞台は(主に)ニューヨークだ。
確かに、「無防備都市」という語を冠することのできる数少ない都市なのかもしれない。
ブリュッセルが対比的に、白人と移民が静かに閉ざしあう非寛容の都市として描かれる。
だが、主人公は黒人であり、アメリカとヨーロッパはグローバル社会で地続きといえる。
自らの生来の逃れられなさのようなものが、語り手に常に貼りついている。
もっとも、自らはあくまで意識というスクリーンであり副次的な存在であり、
最初の動機(モチーフ)として語られるのはあくまで都市の情景だ。
都市の諸側面が惹き起こす出来事や連想の一つ一つは物語になりかけて、
しかし「起」「承」どまり、決して「結」に到らずに語りは放擲される。
たくさんのあぶくのような答えのない問いに溺れかけて
日々の生活がルーチンで回ってゆくような、そんな切実なリアリティがある。

オープンとは何なのか? 人と人との関わりあいとは何なのか、どうあり得るのか?
何百万人の他人の中から、ほんの些細な共通項で
数人とつながる自由(という束縛?)を誰もが有する、
そんな無防備さで成り立つ都市なのか。
都市はもとより商業ゆえ成立し、現代は都市人口は世界人口の過半数に及ぶ。
複雑な網の目の一つのシナプスとして生きる厖大な個々人が都市に暮らすが、
それがどういうことなのか、考えさせられる。