文学が都市を描く手法として、このような散文詩みたいなやり方があることに驚いた。
語り手は一人の感覚器のように、都市を歩き回り、あちこちを訪いながら、
何がしかを想い、繋ぎ、過去を去来し、噛みしめる。
その意識の流れは誰もがなじみ深く、よって追体験できる。
また、内容は個人的ながら同時代的な事象であり、つまり社会的。
かくして、語り手の個性は、都市生活と現代という場に離散し、普遍性を得る。
舞台は(主に)ニューヨークだ。
確かに、「無防備都市」という語を冠することのできる数少ない都市なのかもしれない。
ブリュッセルが対比的に、白人と移民が静かに閉ざしあう非寛容の都市として描かれる。
だが、主人公は黒人であり、アメリカとヨーロッパはグローバル社会で地続きといえる。
自らの生来の逃れられなさのようなものが、語り手に常に貼りついている。
もっとも、自らはあくまで意識というスクリーンであり副次的な存在であり、
最初の動機(モチーフ)として語られるのはあくまで都市の情景だ。
都市の諸側面が惹き起こす出来事や連想の一つ一つは物語になりかけて、
しかし「起」「承」どまり、決して「結」に到らずに語りは放擲される。
たくさんのあぶくのような答えのない問いに溺れかけて
日々の生活がルーチンで回ってゆくような、そんな切実なリアリティがある。
オープンとは何なのか? 人と人との関わりあいとは何なのか、どうあり得るのか?
何百万人の他人の中から、ほんの些細な共通項で
数人とつながる自由(という束縛?)を誰もが有する、
そんな無防備さで成り立つ都市なのか。
都市はもとより商業ゆえ成立し、現代は都市人口は世界人口の過半数に及ぶ。
複雑な網の目の一つのシナプスとして生きる厖大な個々人が都市に暮らすが、
それがどういうことなのか、考えさせられる。
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