14.4.18

タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』

紀伊國屋書店刊。小沢千重子訳。

原題は"Destiny Disrupted - A History of the World Through Islamic Eyes"で、
チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』(原題は"Things Fall Apart")を思わせる。
実際、物語は欧米列強による植民地と石油利権の獲得競争によって
複雑化し分断されるイスラム世界が語られる。
邦題を見ると本書は純然たる歴史書と捉えられるし、事実そのような内容だ。
が、やはり作者の語りたいは、近代以降であり、
特権階級と石油利権と米ソに分断されたイスラム世界の現状にほかならない。
というのは、作者はあとがきで、次のように述べる。
[...]近年の欧米による道徳的・軍事的キャンペーンは、ムスリムを自身の国の中で弱体化させるという定石どおりのプログラムのように思われる。西洋の習慣や法体系や民主主義というのはまるで、個々の経済単位が合理的な利己心に基づいて自主的に判断を下すというレベルまで、社会を細分化するプロジェクトのようにみえるのだ。(p.636)
この訴えは、市民社会という近現代の自明の理に対する深い異議申し立てだ。
イスラムとは宗教つまり生きることの指針であるのみならず、
共同体の指針でもあり、しかも憲法・刑法・民法でもあるから、
いかにアメリカやロシアや西欧が自由と民主主義で社会の基盤を代替しようとも、
制度が二重化してものごとが複雑化するだけだからだ。

物語はイスラム暦である「ヒジュラ暦」の元年から始まり
(併記されている西暦は622年)、
1421年(西暦2001年)の9.11までを語る。
ムハンマドの開教以前の歴史として、ペルシア帝国やゾロアスター教があり、
9.11以降の歴史としてはアラブ革命もある。
とにかく、複雑に交錯しながらも一本の歴史があって、
今という瞬間(例えば、シリア危機)があると、はっきり感じられた。
とはいえ、筋書きは進むにつれて重苦しいことずくめになってゆく。
正統カリフ時代の終焉とともに世俗派からシーア派が分離し、
さらにはイスラム世界の統治権力も複数が相対峙するようになる。
宗派、身分、民族という対立軸が複雑化してゆき、
ときに外部のキリスト教やモンゴルが入り乱れながら、
それでも、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の鼎立する絶頂期まで、
イスラム世界は富や仁智、文化や科学までも華々しく誇っていた。
が、欧州列強の植民地獲得競争であっという間に切り崩されてゆき、
冷戦構造や石油利権がさらに対立を深めてゆく。

現況は、ファクターが多すぎて見通しがつかない。
イスラム原理主義はあまりに国民国家や人権保護に相容れないため、
欧米諸国や国連とまともに会話すらできない。
また、数年前に「アラブの春」が民衆からの下からの抗議として拡がったが、
不満はあれどビジョンを欠いた。
つまり、それを一つにまとめ上げる理念はなく、
ええじゃないかの騒ぎのような世直し欲求として萎みかけている。
ビジョンを求めようとすれば、イスラム史をどこまで遡って参照するかという
答えのない迷宮で、刺し違えることになる。
この袋小路はどこへ行き着くのか。

蛇足だが、我が身を省みて、日本に民主主義は根づいたのか。
民主主義が建前なら、本音として巣食っている因習とは何なのか。
昨今の政情が株価を人質に取っていまだに生きながらえている様子は憂鬱だし、
その旗印たる開発独裁さえ30年近く失政続きという体たらくで、
何がこの国の本当の心情なのか。

6.4.18

ジョン・ケネス・ガルブレイス『大暴落1929』

村井章子訳。日経BPクラシックス版。
2008年刊なので、リーマン・ショックの時期にうってつけだっただろう。

経済学史における制度派の代表的な人物として著者を知っていたが、
著作を読むのは初めて。
あまりに平易な語り口は経済学というよりエッセイのようで、驚いた。

タイトル通り、世界大恐慌の発端となった1929年のアメリカのバブル崩壊を扱う。
「ブラック・チューズデー」の常套句はまるでそれが一日の出来事のように伝えるが、
実態は、値崩れだけでもひと月もあったことは、冷静な損切りの大切さを物語る。
そして、バブルという狂乱が全体主義的な異様な空気を当然であるかのように帯びて、
その全体を突き落とす、この過程はチキンレースさながらだ。

初めは人知れず熱を帯び、徐々に耳目を集めて過熱し、
それを当然とする風潮がはびこり異見を駆逐する。
すると、崩壊が始まっても夢を無理に信じ込もうとする。
また、信用取引、レバレッジ、投資信託のようなメタな金融商品が、
カネを市場に何周も駆け回らせる手法は、
むしろ昨今のバブルと大して違わない。
このあたりは、一般則を引き出すまでもなく、
実例がそのまま後の歴史で繰り返されているように思われる。

終章は、バブルの背景を考察し、
貧富差の拡大や持株会社構造や預金保護不在などを挙げている。
それらは1929年の社会システムに特有の問題だ。
が、それらの羅列を眺めて思ったのは、
社会システムというものはある条件下において、
きちんと因果律に従って崩壊する、ということだ。
どのような要素が歯車のように組み合わさるかは、社会システムによるが。
そして、社会システムがそのように脆弱性を孕んでいる以上、
分析と補正は欠かせない。
プログラムにおけるバグにとてもよく似ている。

4.4.18

リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」

iDᴇᴀᴛʜのある日常が語られる。
その書き出しは淡々と美しく、小説全体を包む静けさを象徴する。
In watermelon sugar the deeds were done and done again as my life is done in watermelon sugar. I'll tell you about it because I am here and you are distant.

町はたいてい西瓜糖でできているらしい。
無数の細い川が流れ、鱒が泳いでいる。
桃源郷のような暮らしがある。
しかし、Forgetten Worksが町外れに打ち棄てられ、
そこに魅せられた者はそこでの生活に疑問を持ち、死を選ぶ。
だが、それは主人公たちには決して伝わらない。
閉ざされた世界は美しく塗り込められて、綻びは許されない。

幸福と生とのせめぎ合いが、そこでは超克されている。
生というものの本質的な危うさが、そこには無い。
いや、墓や立像や鱒としてあちこちに死が刻印されているにもかかわらず、
生が無自覚に、空気のように充満している。
だから、幸福もまた空気のように、快いが自明であり、勝ち取るものではない。

この小説は、自我のない幸福を材に取りながらも、揶揄しない。
むしろ、そのような幸せを描き切ってしまう。
ディストピア賛歌という危うい内容なだけに、問いかけに厚みがある。

──原書で読んだ。
ずっと本棚の奥へと敬遠してきたわりには、読みやすかった。