8.10.08

ライトノベルへの提言2、『城』

前回、友人に指摘された事項に対して。
ライトノベルは結局、文学とは無関係である可能性が高い。
理由の第一に、ライトノベルは、文学へのアンチテーゼとしてではなく、
ファンタジー小説の中でもある種の静的な雰囲気を持つ作品への
根強いファンの出現と、それへの出版社の対応によっている、という出自がある。
ライトノベルの世界観が単にその特徴であるというだけではなく
レゾンデートルですらある、という事実は、私にとっても発見だった。
文学ほか藝術一般の目的である表現の解放は、ライトノベルにはあたらない。
つまり、理由の第二として、ライトノベルはむしろ読者にとって眠りのような快楽を
提供することを最大目的としている、ということがある。
大塚英志は、ライトノベルを商業的にも適った文学ジャンルと捉えたが、
(彼はライトノベルに文学性を付加しようと試みさえした)
その誤解のために、ライトノベルは大塚英志を離れていった。

ライトノベルは、つまり、クラシック=前衛音楽に対応する軽音楽のようなもので、
それ自体で独立したジャンルであると考えられるべきだ。
しかし、ライトノベルへの私の苦言は、現代の文学の閉塞感へも直接繋がる、
いや、そもそもは、現代の文学が閉塞しているがために
ライトノベルにまで作品群が連続してしまったという問題意識による。
例えば、各種の文学新人賞、特に文藝賞(と群像新人文学賞)の堕落は目を覆うものがある。
芥川賞にしても、阿部和重は『アメリカの夜』で受賞すべきだった。
後に受賞したとはいえ、十年の間が空き、しかも『ニッポニアニッポン』のような
優れた作品をも、銓衡委員は怠慢にも見逃し続けた。
福永真、青木淳悟などはまだ候補にも挙がっていないのではないか。
新人賞にこだわるのは、この三、四十年の間に、
同人誌という新人作家デビュー経路がほぼ断たれたからに他ならない。

近況。
カフカ『城』を読了。
それでも人は働き続ける、黒井千次の小説のように。
学歴やら自己PRやらをいくら身につけて就職して
雀の涙の給金をもらったところで、
働くということはやはり、『枯木灘』で秋幸の労働が
何度も何度も描かれるような、実感があってこそなのだろう。
さて、カフカが云うように、人間の住む世界の主体は、
個人ではなく、社会である。
言語の基本単位が単語ではなく文である、と指摘したフレーゲの
コペルニクス的転回を思い起こさせる指摘だ。
ではなぜ現代社会では個人やら個性やらが尊重されるのかって?
そのほうが経済効果だからにすぎない。
さて、社会の複雑系的様相を考えて、
次に読み始める作品は、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』。
『城』では副次的だった「陰謀」という問題が、ここでは主題となる。

2.10.08

記号の戯れ あるいは、ライトノベルへの提言

ライトノベルの現状と問題点

ライトノベルは単なる記号の戯れにすぎない。
ライトノベルにおいて好まれる記号は、以下のとおり:
しらけ(冷め)、暴力、(非対称の対義語としての)対称性、閉鎖空間、非=没我。
これらの複合がライトノベルの本質であり、
ライトノベルとして読まれる全作品の形態であると考える。

登場人物は常に冷静で、行為は常に正しい。
対称性は、他者不在とも換言で着る。
登場人物はみなそれぞれの領分を持ち、「空気が読めている」。
たとえ他者が登場しようとも、
それは非対称的な他者として作品に深みを持たせることはなく、
対称性として、分かりやすく言うなら「悪」として、
作品世界の裏返しとして取り込まれるためのものである。
これらは、主人公が作品内で特権的地位を与えられているからだ。
全登場人物は、主人公を軸として周囲におかれている。
主軸である主人公は、その絶対性ゆえに内省・自己批判を必要としない。
これらを成り立たせているのが、作品世界という閉鎖空間だ。

ライトノベルにおける暴力とは、読者サービスのための不要な装飾品である。
かっこつけとしての白けも同様で、本来は不要だが、
主人公を頂点とする作品世界の絶対性に支えられ、
読んでいて心地よい全能性を強調するために、付与されるのであろう。

記号の戯れである所以は、この主人公を頂点とする絶対性である。
主人公に属するあらゆるものは、吟味されることを免れて正しいとされる。
一方、物語とは、何かを問題にして語るというプロセスであるが、
作品世界内ですべての価値判断が済んでいる状態では、何をも問題化できない。
よって、記号は終始、形を変えずに戯れ続けざるを得ないのだ。


ライトノベルはいかに文学性を獲得するか

ライトノベルが文学性を確保するためにはいかにすべきか。
ライトノベルは、最初に挙げた諸要素によって満たされるので、
基本的には文学との関連はない。
しかし、文学の指向をライトノベルに適用すればいいのではないかと私は考える。
それは、模倣と破壊である。
ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、
騎士道文学を模倣することによって、それを内部から破壊することに成功した。

ライトノベルの行く末は、二通り考えられる。
一つ目は、ライトノベルの形態が変容した場合。
これは、私が上に挙げて予想したような文学性獲得や、
あるいは、非常に斬新な手法によって、ライトノベルが現在の枠組みを捨てた場合。
ライトノベルは止揚することで、延命されることになる。
ただし、それが読者に受け入れられるか否かは全くの別問題。
二つ目は、ライトノベルが変容しなかった場合。
ライトノベルは、絶対的自我に支えられた、非常に現代的潮流にあったジャンルなので、
大部分の漫画のように、時代を越えられぬまま、時の忘却に遭うだろう。
黙示文学、騎士道文学、私小説、などのように、
文学史にのみその名を留めることになる。


ライトノベルからみて文学とは何か

ライトノベルを反面教師として、文学の可能性を考えることは有用である。
文章によるという形態、商業性、時代性などは共通しているからだ。
しかし、これは今後の課題としたい。


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私の云いたいことを要約すると、こうだ:
『キノの旅』がつまらなすぎる。

16.9.08

就職(petit annonce de mon boulot)

内々定をもらいました。
来年度から横浜に勤めます。

J'ai gagné une embauche dans une université à Yokohama.
J'y travaille à partir d'avril 2009 en tant qu'administrateur.

14.9.08

音楽

「音楽」という二文字を見て真っ先に浮かぶのは、
同名の題の三島由紀夫の小説。未読ながら。


おめでとうございます!
先輩の同居人のバンド « dry as dust » がCDデビュー。
仙台でも大きなスペースをとって売り出されていた。
けっこう激しい、ということで、確かにそうだが、
ヴォーカルの周囲で賑やかに鳴っているはずの楽器が、
中心で伸びる声の細さ・鋭さに搦みつくように、どれも影を帯びていて、
これが独特の味を出しているように思われる。
一度聴いただけではわかりにくいが噛み締めていると分かってくるような、
一筋縄にいかない味があるのだ。

>nagiさん
『神曲』は手許に置いておいて何気なく繰りたいと思うような、数少ない本ですよね。
もっと年若い自分に出会えていればよかったと惜しませる本でした。

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』と、フランツ・カフカ『城』を平行させて読んでいる。
前者は、思考実験のような作風で、イヨネスコ『犀』やカフカ『変身』の一統に入る。
つまり、A=Bという事実(=固定観念)をあえて否定し、それを出発点としてひたすら引っぱってゆく書き方だ。
どのA=Bを題材に採るか、そして、どのように展開させてゆくかが、作家の力量となるのだろうが、
この作品の面白いところは、多重の二項対立が現出するところ。
イヨネスコ『犀』ならば、動物/人間という対立軸に、
野生/理性、無秩序/秩序などの対立は副次的なものとして収斂される。
カフカ『変身』も、人間/虫に、日常/タブー、生/死が含まれている。
だが『白の闇』では、視力の有/無という、作品の出発点とは別個に、
権力/群衆、個/集団、倫理/欲望などが現れるのだ。
これが面白いので、すらすら読めてしまう。
(あるいは、ジョイス『オデッセイ』のような、英雄なき現代社会の小説なのかもしれないと思ったが、
 それはちょっと違うようだ)

3.9.08

Divina Commedia

ダンテの『神曲』を読了した。
その逞しい筆力、圧倒された。
あそこまで力強く端正な文章、構成。
ルネサンスは、すでにここで萌芽している。

主に、いわばあの世の社会見学のように自分には読めた。
腐敗した聖職者たちや、イタリアを混沌たらしめる政治家たちを、
ダンテは敢えて地獄に配し、しかも煉獄や天国においても、教会の堕落を糾弾させる。
13世紀にして後の宗教改革の下準備となったとも云われる所以である。

ともかく、それを措いても、この一大叙事詩は読むに値する。
寿岳文章の訳も、詳細な註釈も、素晴らしかった。
日本語で読めるこの時代に感謝したい。
ダンテ本人は、折角ラテン語ではなくイタリア語で書いたのに、と反駁するであろうが。