ライトノベルは結局、文学とは無関係である可能性が高い。
理由の第一に、ライトノベルは、文学へのアンチテーゼとしてではなく、
ファンタジー小説の中でもある種の静的な雰囲気を持つ作品への
根強いファンの出現と、それへの出版社の対応によっている、という出自がある。
ライトノベルの世界観が単にその特徴であるというだけではなく
レゾンデートルですらある、という事実は、私にとっても発見だった。
文学ほか藝術一般の目的である表現の解放は、ライトノベルにはあたらない。
つまり、理由の第二として、ライトノベルはむしろ読者にとって眠りのような快楽を
提供することを最大目的としている、ということがある。
大塚英志は、ライトノベルを商業的にも適った文学ジャンルと捉えたが、
(彼はライトノベルに文学性を付加しようと試みさえした)
その誤解のために、ライトノベルは大塚英志を離れていった。
ライトノベルは、つまり、クラシック=前衛音楽に対応する軽音楽のようなもので、
それ自体で独立したジャンルであると考えられるべきだ。
しかし、ライトノベルへの私の苦言は、現代の文学の閉塞感へも直接繋がる、
いや、そもそもは、現代の文学が閉塞しているがために
ライトノベルにまで作品群が連続してしまったという問題意識による。
例えば、各種の文学新人賞、特に文藝賞(と群像新人文学賞)の堕落は目を覆うものがある。
芥川賞にしても、阿部和重は『アメリカの夜』で受賞すべきだった。
後に受賞したとはいえ、十年の間が空き、しかも『ニッポニアニッポン』のような
優れた作品をも、銓衡委員は怠慢にも見逃し続けた。
福永真、青木淳悟などはまだ候補にも挙がっていないのではないか。
新人賞にこだわるのは、この三、四十年の間に、
同人誌という新人作家デビュー経路がほぼ断たれたからに他ならない。
近況。
カフカ『城』を読了。
それでも人は働き続ける、黒井千次の小説のように。
学歴やら自己PRやらをいくら身につけて就職して
雀の涙の給金をもらったところで、
働くということはやはり、『枯木灘』で秋幸の労働が
何度も何度も描かれるような、実感があってこそなのだろう。
さて、カフカが云うように、人間の住む世界の主体は、
個人ではなく、社会である。
言語の基本単位が単語ではなく文である、と指摘したフレーゲの
コペルニクス的転回を思い起こさせる指摘だ。
ではなぜ現代社会では個人やら個性やらが尊重されるのかって?
そのほうが経済効果だからにすぎない。
さて、社会の複雑系的様相を考えて、
次に読み始める作品は、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』。
『城』では副次的だった「陰謀」という問題が、ここでは主題となる。
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