6.8.17

新倉貴仁『「能率」の共同体』

新倉貴仁『「能率」の共同体 近代日本のミドルクラスとナショナリズム』

岩波書店刊。

第二次大戦前のきな臭い軍国化より前に、
大正デモクラシーが国民国家の前提たる国民教育を完遂させた。
計画性、文化性、能率性を埋め込まれ、銃後で生産に邁進する。
現代風にいえば、文化主義は総力戦体制のデュアルユースだった、ということになる。
これは、大正という短い時代に対して
両大戦間期のモダニズム文化を見出だそうとするような憧憬にとって、
悪夢のような分析だ。

戦後は、丸山眞男があまりに哀しく取り上げられる。
丸山眞男は民主主義の担い手としての主体を目指したが、
経済成長はそもそも自己完結した主体ではなく、
生産し消費する市場化された主体として、国民を形成した
(私としては読みながら、シンガポールの街並みが頭に浮かんでいた)。
戦前と戦後は科学面、技術面で地続きとはよくある謂いだが、
国民の意識というレベルでも地続きであった、という分析だ。
丸山眞男から吉本隆明へという展開が、戦後派から第三の新人以降へという
大きな空虚を内面に孕みつつ豊かになってゆく文学風景をも説明しているようで、
非常に鮮やかな筆致だった。

それにしても、都市化、中流化、単一市場化は日本に限られないはずなのに、
何が日本を開発独裁体制のように突き動かしたのか。
もちろん、本書はその枠組みの原点を問うというより、
その枠組み下での思想風景を描き出すものではあるが、やはり疑問は残る。
もちろん、その追究は思想史の分野において限界があるのかもしれない。
対米や冷戦という構造でこそ、分析されなければならない領分ではあろう。

能率が人の手を離れようとしている現代において、いかに可能なのか。
技術革新は欲望を喚起しつづけているが、市場は飽和し疲弊つつあるようにみえる。
生産と消費の同時を引き受けるミドルクラスは、
その両輪のバランスを崩しているように思える。
massからdigitへという流れのなかで、大衆は徹底的に数値化され、
生産者ではなく消費者として搾取され、堕ちてゆくのだろうか。

2.6.17

トマス・ピンチョン『ヴァインランド』

池澤夏樹個人編集世界文学全集収録。
佐藤良明訳。すばらしい翻訳だった。

ピンチョンが作品の軸に据える二項対立は、生き生きとして面白い。
厖大な細部が休む間もなく繰り出され、
世界の動態そのものを写し取ったかのようなリアリズムが現前するからなのか。
あるいは、その二項対立のリフレインがあちこちの瞬間や位相で見出だされ、
まさか自分が深読みしすぎの陰謀論者ではないかと錯覚させられるからなのか。

『ヴァインランド』の二項対立はヒッピーと体制。
『V.』における街路と温室という主題の変奏曲でもある。
が、プロフェインにあたるゾイドはさほど主人公格でもないし、
その元妻フレネシは組合活動家の血筋で反体制運動に身を投じているにもかかわらず、
制服フェチで体制に通じてしまっているという両義性。
いわゆる"当局"を人格化したようなブロック・ヴォンドは、
肥大した性的コンプレックスに突き動かされ、
その点でヒッピー的な放埓さと、LSDのカラフルな幻覚とも近しい。
そして、フロンティアにおいて発達したはずの映画産業が、
レーガンという赤狩り協力者上がりの大統領を産んだという矛盾とともに、
カウンターカルチャーが奇しくも次世代の閉塞へ繋がってゆく時代の空気を映す。

あちこちに二項対立がありつつも同時に両義的であり、
その信用ならなさがどうも現代と通じるところがある。

だが、個人的には読んでいて少し物足りなかった。
重要な脇役がみな作り込まれている割りに深みがない気がしたし、
ストーリーが強引でリニアな感じが否めなかった。
物語の舞台が大きく揺らぐようなことはなく、
ざっと散りばめられて賑やかに終わった読後感だった。
それが60年代というものだったのかもしれないが。

30.4.17

カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』、伊藤比呂美訳「日本霊異記」

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

脇功訳。松籟社版「イタリア叢書」の一。

二人称で書かれる小説は珍しい。
しかも、男性読者と女性読者という二人の二人称が現れる。
ふつう単一の読者が本を読むが、この小説は逆に読者を取り替える。
また、小説はリニアに進むどころか唐突に中断され、
読み手は小説において二人称で語られる「自分」として、
物語の行方を追いかける。

終盤、禁じられた物語を求めて図書館に行き着いてゆくくだりは、
『華氏451度』と似て感じられた。
物語るという人間の本能的ともいえる行為への讃歌だ。

それにしても、カルヴィーノの作品は広範だ。
リアリズム的な叙述から、情景美やメタ小説まで。
文体や問題意識の明確さの一貫した近代的な作家像を超えて、
中世からポストモダンまでのあらゆるアプローチで物語る、
その職人技がカルヴィーノだ。


伊藤比呂美訳「日本霊異記」

池澤夏樹個人編集『日本文学全集』(河出書房新社)第8巻に収録。抄訳。
そういえば、高校生の頃、
同じ伊藤比呂美の『日本ノ霊異ナ話』の広告を文芸誌に見た記憶がある。

仏教色の濃い説話集ではあるが、
語られる内容の核心は生き生きとして庶民的だ。
中世的なグロテスクさが見え隠れもする。
一方、語りの枠組みや、因果律的な構成は、仏教的である。
9世紀に書かれたとき、すでに仏教は社会の上層部に食い込んでいただろうが、
庶民の間ではどうだったのだろうか。
案外、前後関係も整わないままの古来のグロテスクな民話が、
たくさん生きていたのではないか。
そして、その頃から人間は変わっていない。

いかに仏教色がまぶされていても、血の通った熱の帯びた物語が人間味を伝えている。

3.4.17

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』、宮澤賢治「貝の火」、薄田泣菫「利休と遠州」、芥川龍之介「六の宮の姫君」

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』

NHKブックス別巻。
多数の著者、対談者の言説があって、面白かった。
団地に生まれ育った論者の言説はそれぞれ、
望郷の遠いまなざしと、少しずつ異なる原風景がどことなく入り混じっていて、
画一的とされる団地の多様性、あるいは団地受容の多様性を物語っていた。

郊外は戦後復興、高度成長という現代史を支えてきたなかで、
当初は文字どおり寝るためだけのベッドタウンだったが、
徐々に都心が多核化し、郊外は遠方の都心ではなく近郊の副都心への労働力供給へ、
軸足を移しつつある、という指摘がなされていた。
確かに、乗換駅はもともと郊外であったとしてもハブ化するし、
ロードサイド店舗の集中により副都心化する場合もある。
加えて、職住近接が比較的容易になったということだろう。

小田光雄の「(団地は)地方から追われ、都市に向かい、都市に住むことを拒絶された生活者たちの約束の地」という表現が紹介されていた(85ページ)。
団地に特有の逃げ場のなさ、漂白感、画一性は、確かに夢の地だっただろう。
が、そこは企業戦士たちの寮でしかなかった。住人の交流は競争意識的だった。
いまシェルター化した団地は、取り壊しを待つ古い自治寮に似ている。

都市開発と自治は結局のところ独裁のほうがうまくいくのではないか。
その意味で、ユーカリが丘や東急電鉄の事例は示唆的だった。
ユーカリが丘は山万が一体的に開発しており、
都市交通の運営、住居供給コントロールによる人口調整、
保育や介護の施設運営など、住民サービスを一手に引き受けている。
そのため、多くの業者が入り組んで身動きの取れなくなった団地一般と異なる。
たまプラーザ再開発の事例は、住民の参加があり、
計画に対する排他的な権力はいないにしても、
横浜市と東急電鉄の政策誘導は意地悪く見れば結論ありきの雰囲気がある。

宮沢賢治「貝の火」

喜多川拓郎による朗読。
勧善懲悪的な箴言のようなお話し。
特に、貝の火が時間差で毀れるということが、
もっとも作者が言いたかったことに思われた。

薄田泣菫「利休と遠州」
芥川龍之介「六の宮の姫君」

ともに海渡みなみによる朗読。

29.3.17

江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」「日記帳」「算盤が恋を語る話」、林芙美子「幸福の彼方」「新生の門」、谷崎潤一郎「恐怖」、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」「日記帳」「算盤が恋を語る話」

「屋根裏の散歩者」は日根による朗読。
「二銭銅貨」はmamezoによる朗読。
「日記帳」「算盤が恋を語る話」は二宮隆による朗読。

「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」は「人間椅子」と同じく、
社会に隠された空間を見出だす話だ。
だが、その発見によって主人公は何らかの欲望を抱く、というより、
主人公はそこに物語を渇望している、という構造になっている気がした。

「屋根裏の散歩者」の主人公は、
かつて別世界を眺めるようにのめり込んだ殺人トリックを適用するし、
明智小五郎による嘘の証拠品に自らの罪状を物語的に結びつけることで自白へ導かれる。
「二銭銅貨」は松村と語り手がトリックを仕掛けあうが、
現実には何も起きていないぐうたらの中にいるだけだ。

欲望が物語を作る。
それは、「日記帳」「算盤が恋を語る話」も同じだ。
暗号が相手に伝わらないまま、主人公が妄想をたくましくする話だ。

林芙美子「幸福の彼方」

海渡みなみによる朗読。

戦後間もない貧しい生活感と、先行きのわからないながらもぼんやり明るい時代が、
作品を幸せな感じにしている。
一方その背後で、前提のようにしか語られないが確実に時代と個々を蝕んでいた戦中が、
すでにすぎたことにされている、この阿呆ともいえる健忘症が、
どことなく作品の厚みを削いでいるような気もする。
作品が書かれた時代とある種の対極の側からの読後感だろうが。

あと、正直、林芙美子が描く男女間の理想には隔世の感があるのか、よくわからない。
女性が家庭にいることが当たり前の時代への知識から、類推はある程度できるが。
幸せが家族と直結する感覚。そういえば、女流作家という言葉があった頃だ。

林芙美子「新生の門 ──栃木の女囚刑務所を訪ねて」

兼定将司による朗読。

女性刑務所を訪ねるという短いエッセイで、
女性服役者への表面的な親近感が語られる。
上の作品で感じた女性観への違和感が続く。
服役者への差別視を乗り越えることが新しかったのだろうか。
林芙美子は女性を描いているが、視座は男性なのかもしれないと思う。

谷崎潤一郎「恐怖」

岡田慎平による朗読。

鉄道恐怖症の主人公が徴兵検査のためながらなかなか京阪電車に乗れない。
好まない目的のために鉄道への強迫観念で心身を滅ぼす(と思い込む)こと、
しかも期日など実はどうでもいいのかもしれないということ、
このあたりが、一つの明確な目的ではなくおぼろげな行く末という
第一次大戦前の空気への風刺なのか。
時代閉塞というより、身に染みわたった日和見主義を指すのかもしれない。
だから、電車になかなか乗らない言い訳を他人にしたり、
かといって、知人に誘われて乗ってしまったり、
人の目を気にすることは人一倍長けている。

ここに描かれる恐怖は、その原因がわからないゆえに表面的だ。
まず、徴兵検査は当然とされていて、行く必要があると信じて疑われない。
小役人が大義や大局から目をそらし、
絶えず上司の飼い犬のように動くのと同じだ。
だから、徴兵検査そのものを検証すべきなのに、そのアイディアは一切ない。
そして、常識を守らない恐怖は際限がない。

ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

光文社古典新訳文庫版。中条省平訳。

10年くらい前に一度、大学図書館で手に取ったような記憶があるが、
ほとんど読み始められないまま却して、年月が経ってしまった感がある。
新訳ということで読みやすかったものの、自在な語り口は生半可には追えない。
その意味で、この作品は小説というより、散文詩だと思った。
巻末の解説に「アニミズム的」とあって、言い得て妙だと思った。
妄想は実体化するし、譬えが次の行動へ流れ込む。
この文体は驚異的だ。物語が因果律のようでいて、自由律なのだから。
それでいて、小説の基本軸たる物語がこれでいいのかという程度には存在する。
この作品の醍醐味はあくまで瞬間々々の煌めく思考と文体だ。