新倉貴仁『「能率」の共同体 近代日本のミドルクラスとナショナリズム』
岩波書店刊。
大正デモクラシーが国民国家の前提たる国民教育を完遂させた。
計画性、文化性、能率性を埋め込まれ、銃後で生産に邁進する。
現代風にいえば、文化主義は総力戦体制のデュアルユースだった、ということになる。
これは、大正という短い時代に対して
両大戦間期のモダニズム文化を見出だそうとするような憧憬にとって、
悪夢のような分析だ。
戦後は、丸山眞男があまりに哀しく取り上げられる。
丸山眞男は民主主義の担い手としての主体を目指したが、
経済成長はそもそも自己完結した主体ではなく、
生産し消費する市場化された主体として、国民を形成した
(私としては読みながら、シンガポールの街並みが頭に浮かんでいた)。
戦前と戦後は科学面、技術面で地続きとはよくある謂いだが、
国民の意識というレベルでも地続きであった、という分析だ。
丸山眞男から吉本隆明へという展開が、戦後派から第三の新人以降へという
大きな空虚を内面に孕みつつ豊かになってゆく文学風景をも説明しているようで、
非常に鮮やかな筆致だった。
それにしても、都市化、中流化、単一市場化は日本に限られないはずなのに、
何が日本を開発独裁体制のように突き動かしたのか。
もちろん、本書はその枠組みの原点を問うというより、
その枠組み下での思想風景を描き出すものではあるが、やはり疑問は残る。
もちろん、その追究は思想史の分野において限界があるのかもしれない。
対米や冷戦という構造でこそ、分析されなければならない領分ではあろう。
能率が人の手を離れようとしている現代において、いかに可能なのか。
技術革新は欲望を喚起しつづけているが、市場は飽和し疲弊つつあるようにみえる。
生産と消費の同時を引き受けるミドルクラスは、
その両輪のバランスを崩しているように思える。
massからdigitへという流れのなかで、大衆は徹底的に数値化され、
生産者ではなく消費者として搾取され、堕ちてゆくのだろうか。
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