12.10.17

『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』

田中淳一訳。水声社刊。
原題は« Tokyo Infra-ordinaire »。
ジョルジュ・ペレックの« L'Infra-ordinaire »にひっかけてある。
タイトルのごとく、東京の平凡な日常へと目を凝らす。

記述は入れ子状で、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を思わせる。
ただ、下位層は上位層への説明であると同時に、軽い反駁、自問、脱線だ。
訳者は「「カッコ」と「挿入」を多用し、濫用し」と解説している。
主題はまっすぐに進行せず、どんどん横滑りしてゆく。
しかも主題はアジア都市・東京であるからすでに支離滅裂だ。
五感と筆の赴くままの語りが、不思議と都市によって織り成されている、
そのような感じの文章だった。

旅に行きたくなるような作品(小説? 随筆?)だった。
ルーボーは日本語を解さないため、
東京に満ちた言葉は音となり、文学の詩句へつながる。
また、山手線(と、一部で丸ノ内線)に運ばれてゆく視覚は、
おそらく万物が雑多にぶちまけられたカンバスのようなのだろう。
何に驚き、何に連想を繋げるかは、まさに作者の自由。
この筆のすさびこそ、旅そのものではないか。

11.10.17

莫言『転生夢現』

中央公論新社刊。
吉田富夫による臨場感のある口語っぽい訳が読みやすかった。

1950年から2000年までの中国の一村の物語。
主人公の西門鬧が冤罪の恨みとともにロバ、牛、豚、犬、猿を輪廻しながら、
文化大革命から改革開放までの歴史に翻弄される一族を俯瞰する。

壮大な群像劇であり、まさに歴史だった。
瀕死の牛が飼い主の土地まで歩んでから死ぬシーンや、
二匹の豚が観衆の歌う真ん中で頂上を争って戦うシーンや、
いくつもの情景が心に残った。
常に時代々々の大義と情が人を突き動かし、
登場人物たちは出世と左遷を経めぐり、立場をぐるぐる上下させながら、
自らの役を命がけで演じる。
人民公社、党内の地位、情愛、……。
語り手の回想だけが歴史を達観するが、
進行中の歴史は最重要な今でしかない。
そして、今はいずれ無価値に打ち棄てられるか、時によって和解されてゆく。
人間への賛歌なのか、永劫回帰の哀しみなのか。
歴史の暴力と無情を肌身で語る物語は、いずれをも超えてひたすら語り続ける。

22.9.17

チェスタトン『木曜日だった男』、斉藤斎藤『渡辺のわたし』

ギルバート・キース・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』

いくつか訳が出ているなかで、光文社新訳文庫の南條武則訳を択んだ。

話が現実味を帯びた舞台から空想的なふわふわした次元までいっても、
きちんと語り手が煙に巻かれずに語り続けてくれる、
そういう小説は、実はもっとも堅牢な気がする。
いい意味でも、悪い意味でも。

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

斉藤斎藤の短歌はどれも、情景的に美しさはないが共感がある。
そして、なんとなく他人の影はあるのに、その実体がない。
あくまで詠み人の意識に映った、詠み人との接点においての他人だ。
そして、その他人を通して、詠み人は自分とその意識を歌う。
しかも、それさえ純粋ではなく、輪郭がおぼろげな感触でしか捉えられない。
このもどかしさが、第一首の
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
なのだろう。
斉藤斎藤はフィクションを拒んでいる。
自分に移る他人を、自分から浮遊させるというフィクションさえも。

それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いた
公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように
という祈るような歌も、卑近だ。
よく言えば親近感がわくが、率直に言えば臆病に読める。
でも、その臆病さにこそ、
リアルとして主張することさえできないぐらい等身大なリアルがある。

13.9.17

ケストナー『飛ぶ教室』、ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

池内紀訳の新潮文庫版。

大人と子ども、子ども同士、みな互いを尊重しあい信頼しあっていて、
美しい学び舎の美しい児童文学、と感じるのは、
現実世界が言葉の理解を超えたぎくしゃくに満ち溢れているからか。
でも、社会の根本は、やはり理想主義を喪ってはならない。
そう勇気づけられる思いがした。

この作品が1933年のドイツで書かれたという背景をあとがきで知ると、
大人が読んで感じ取るべき問題意識の根深さにうんざりする心地がする。
作品が描き出す社会と正反対に、市民社会の質が急速に劣化し、
ナチスドイツがぐんぐん台頭する。
経済という首ねっこを摑まれると、人はどこまでも排他的になれるのだろうか。

子どものときに読んでいたら、どう感じただろうか。
「こんな悩みのない子ども社会がドイツでは現実的なんだろうか?」と、
羨ましく思いを馳せたかもしれない。
日本の小中学校では、一人ひとりが多大に牽制しあうように空気を読んで、
はっきりものを言えない世界が広がっているから。
でも、作者がドイツで同じような社会の雰囲気で書いたともし知ったら、
それはそれは鼓舞されたことだろう。


ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

福音館文庫版。天沢退二郎、増山暁子訳。

クマが山を下りてシチリアを征服し、
13年の人間との暮らしを経て山へ帰るまで。
ほのぼのとした物語の進行は、愉快に歌うような文体ゆえか。
ただ、幾度かの戦いで死ぬクマや人間はいるし、
悪い奴やバッドエンドはある。
その事実を隠さない態度もまた良い。

挿絵がとてもかわいい。
しかもブッツァーティの描いたものだというから驚く。
ページいっぱいに場面全景が繰り広げられていて、
あちこちに登場人物たちのそれぞれの動きが描き込まれている。
一つの絵がたくさんのお話のそれぞれの一場面を映していて、
ブッツァーティはほんとうにお話好きな人だと、思わずにいられない。
最初の登場人物紹介のお茶目な語りっぷりからしてそうなのだが、
語って楽しませようといういたずらっぽい欲求が、挿絵から滲み出ている。

20.8.17

『ゾルゲの見た日本』、稲垣えみ子『魂の退社』

みすず書房編集部・編『ゾルゲの見た日本』

リヒャルト・ゾルゲが1935年から1939年の間、
ドイツの雑誌に発表した6本の日本研究論文。
ソ連スパイではあれナチス政権からも識者とされており、
本名で執筆された論文だ。
拘留中の文章にも、時代が違えば学者になっていただろうとあるし、
優れた観察眼ははっきり読み取れる。
内部は外部の視座によってこそ客観的に把握でき、
簡明な文章によって的確に伝達される。
国内の報道で世界(ときに国内)情勢が正しく把握できない昨今と同じだ。
なお、訳者は、あとがきによれば不詳。
概ね東京外国語大の生駒佳年教授ではないかと推察されている。

日本がソ連と開戦する可能性を調べる任務を帯びていた"ラムゼイ"の文章だから、
国力が日本にソ連開戦を許すかどうか、それを徹底的に分析している。
輸出入と国際決済が国家総動員体制によって厳しく制限されるにせよ
多くをアメリカに依存している現状への厳しい指摘は、
その直後の日米開戦が無策どころか無脳だったと帰結せざるを得ない。
日本の工業が農村から税制的、人件費的に搾取するうえで成り立っていること、
財界・地主階級による政党政治が、農村出身者の占める軍部にとって皇国の堕落と感じ、
よって二・二六事件がある種の時代の必然と捉えられていたということ、
このあたりは、時代というものがいかに制度的な妥協の産物であるかを感じさせる。
そして、時代や風潮の転げてゆく流れに対して、
ヒーローが都合よく現れて立ち向かうことなどないのだ、と。
附録の暗号文は、現代からみれば歴史である振り返りを、
刻一刻と動く情勢として蘇らせてくれる。

「日本の政治指導」というわずか6ページの論文は、
1939年に書かれたものだが、そのような制度論を冷徹に裏づける。
その論文は簡潔に、次のことを述べる。
  • 国会は審議機関の権能をほぼ有しない。
  • 天皇ありきの国家観は国民さえも規定せず、絶対君主制というより全体的君主制である。
  • 国家元首かつ国家神道最高神たる天皇は超越的であり、政治は、内閣、軍部、枢密院という3者が受任する。
そして、次のような結論づけが、いかに日本的かと唸らざるを得なかった。
日本の「全体的君主制」の「受任制度」は、民主主義的でもなければ全体主義的でもない。それが、いろいろの「受任機関」相互の力関係のいかんによって、政治活動の上では、ある程度民主主義的または全体主義的な特徴をおびることがあるとしても、それは決して二つの統治制度の間の妥協でもなければ綜合でもない。それは実際のところ、独特な日本的作品である。(146ページ。原文は「独特な日本的作品」に傍点)

稲垣えみ子『魂の退社  会社を辞めるということ。』

50歳での退社に至るまでの心境の変化と、
退社後の脱力した暮らしとを語ったエッセイ。
退社に至るまでについて正直な感想としては、
省みればそうなのだろうが、
実際の心境の機微とすればそれほど整ったものではないのだろう、
と、読んでいて感じた。

もっとも、カネとキャリアという会社が縛る二つの鎖と、
どうやって折り合いをつけてゆくか、とも読めるので、
会社に社会性を収奪され尽くした大多数の労務者が
定年後に行き場を失うことへの処方箋のような体験談だ。
そのために、社外の関係を築いておくこと。
それが挙げられていた。
「つながり」。昨今の定石だ。が、大切だとは思う。

前に読んだ『寂しい生活』と同じく、
老いを前にどう生活を畳んでゆくか、という主題もあって、
むしろ、会社ありきでしか社会保障が成り立っていない現在、
早期リタイアがいかに不経済かを示している段が興味深かった。
だが、60歳や65歳までしがみついてから突如放り出されるより、
まだ心身が動くうちに積極的に生活を切り替えてゆくほうが、
むしろ良いように思われた。