13.1.20

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』、『同 戦中篇』、柏木惠子『子どもが育つ条件』

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』『同 戦中篇』

戦時中の暮らしというものがどうだったのか、
その生の声を知りたくて、読む。

物資統制中は大変な思いをしながらも、
それでもかなり良い暮らしをしていたとは驚き。
昭和19年や20年でも、常食でないにしても白米や卵を食べ、
麻雀やポーカーに興じているとは。
知名度にものを言わせて慰問で物資を稼ぐなど、
庶民からすれば苛立ちの種だろう。
もっとも、その時代は臣民一人ひとりに逞しく生きるよう強いた、
その喜劇役者としての一例にすぎないのかもしれない。

年を経るにつれて、敗戦色が濃くなってゆくのが興味深い。
喜劇を弾圧する内務省当局の行き当たりばったりな対応はさながら悲喜劇。
報道が連合国側の動静を知って、
1945年初めにすでにおぼろげに敗戦を予期していたらしいとは驚いた。
もっと言論統制と防諜が効いていて、
そのようなことは話せなかったものと捉えていたが。

いずれにしても、戦時とはいえ、同じ人間が日常を引きずって生きていた、
その普遍性に戦争をかぶせて初めてわかる、その虚しさ。

『戦後篇』『晩年篇』を読み残している。
ちびちび進めながら、今度は戦後の混乱と復興を眺められるぼが楽しみ。

柏木惠子『子どもが育つ条件 ──家族心理学から考える』

岩波新書版。
内容は、「子どもが育つ」というより「大人が育てられる条件」であり、
すなわち、男性の長時間労働と家庭不在への指弾が多い。
2008年初版からここ10年余りで、
男性の育児休業取得にまつわる状況は改善しただろうが、
抜本的には変わっていない現状が見て取れる。

「「先回り育児」がもたらすもの」という章は子育てへの即効性ある智慧であり、
読んでいて納得させられた。
年齢よりは早く習いごとに通わせるより、
子どもに応答的であることが今後必要である、ということ。

2008年初版ということで、10年前の刊行だが、
小学校での英語教育という愚策を許す社会にあって、
その警鐘はより人口に膾炙してしかるべきだと思う。


24.11.19

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代』、山口創『子育てに効くマインドフルネス』、高橋惠子『子育ての知恵』、中村隆英『日本の経済統制』

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』

都市を焼け野原と化しめた空襲はもちろんのこと、
戦時改描、不要不急線、建物疎開、軍事施設の戦後利用など、
ある程度の知識はあった。
が、地図が実際に証拠づけている様子が解説されるのは、
上意下達と現場の当時のせめぎ合いが浮かんでくるようでもあった。
また、朝鮮、台湾、満洲といった“外地”の地図では、
租界や出自ごとの地割といった大日本帝国の論理や、
移住者の郷愁の滲む都道府県名の字名など、
日本人によって遠慮なく振りかざされた痕が露骨に残っていて、
日本人の気質が気恥ずかしいほどよくわかる気がした。

著者の文章は直截で澱みなく、読み物としてもスラスラ読めて面白い。


山口創『子育てに効くマインドフルネス 親が変わり、子どもも変わる』

光文社新書ということで手に取って読んだが、
スピリチュアル系の香りが立つ。
目の前で起きている問題を客観視し整理するには役立つかもしれないが、
どうコミットするのかは考慮の外に置いている。
気の持ちようとしての参考にはなるかもしれなかった。


高橋惠子『子育ての知恵 幼児のための心理学』

岩波新書。
タイトルのとおり、子育ての折々で参照したいような一冊だった。

ボウルビィの「愛着」概念と社会での誤った受容は、勉強になった。
幼児の人間関係の多重性については、
やはり子どもも人間であり、社会的存在なのだ、と感心し、
親権を振るうべき対象ではなく個として尊重するべき、という
当たり前のことを改めて実感した。
「あなたの子どもは、あなたの子どもではありません」という
デンマークの標語が紹介されていて、
その人権意識はまったく日本に欠けるものだ。

「母親が一番」といった根強い母親神話や、
「三つ子の魂百まで」という俗説まで、
科学的な知見を以て冷静に分析し、断じている。
これこそ社会や政治への科学の面目躍如、と読んでいて痛快だった。


中村隆英『日本の経済統制 戦時・戦後の経験と教訓』

『古川ロッパ昭和日記』を読み進める上で、
戦時中の経済体制について知りたくなり、読んだ。

金本位体制での国際収支の均衡という制約のなかで、
軍備拡大のために経済統制をする、というポスト大正期のイデオロギーが、
いかにして机上で練られたあげく陸海軍省の権威とともに実現され、
民需を圧迫して破滅していったか。
裏から、石原莞爾の「世界最終戦論」と、米国不参戦と、
根拠のない前提が雰囲気的に蔓延していた、という思考停止状況も手伝う。
経済統制は画一的で徹底的であり、その描写は笑ってしまうほどだ。
先祖の身に起きた災難を笑うのは、哀しむべきことだが。

米の配給制度が初めて貧農層にも米食を行き渡らせたことは知らなかった。
また、戦前の組合運動が産業報国会という労使協同の談合組織として
事業所ごとに組織され、それが戦後に労働組合となったとも、知らなかった。
戦後の重工業化や食管法など、戦時中の名残の制度は知っていたが、
管理通貨制度や指定金融機関制度、下請け制度、
年功序列や終身雇傭もそうとなれば、
経済という有機体が戦争を経ようともいかに連続した営みであるか、
改めて驚かされる。

話はそれるが、読んでいて感じたことは、
官僚というのは優秀な集団だとしても所詮は権力の両腕でしかなくて、
善行も愚行もとにかく精密に遂行する連中でしかない、ということ。
もちろん、官僚機構は行政を執り行ういわば歯車であって、
議論や内部監査といった思考をする場ではないので、当然といえば当然だが。

ちくま学芸文庫。
もとは、石油二法へのアクチュアルな問いとして、
1974年に日経新書として刊行されたもの。
巻末には資料として、
国家総動員法の条文や、経済新体制確立要綱などが付録されている。
およそ半世紀前、高度経済成長末期の日本人は働くサルのイメージだが、
新書がこれほどの知識の厚みのある書物を以て世に問うとは。

19.7.19

鳥居『キリンの子』、ウエルベック『ランサローテ島』、クッツェー『モラルの話』、五十嵐泰正・開沼博『常磐線中心主義』、町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

鳥居『キリンの子』

壮絶な生い立ちの歌人という怖さから、
手許に置きつつもページを開けなかった。
詠み手は自己から乖離して、自分の身体を遠方から見つめている、
そのような歌がほとんどだった。
それでいて、その視覚はまっすぐなあまり私情がない。
心理小説の掌篇のような歌だ、と思った。

入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で
(p.8)
死のうと入った海は暖かかったのだろうか。
陸はもっと凍えるようなところだったのだろうか。
そう問いたくて垣間見ようとする詠み手の心理が、
まったく閉ざされている。

だが、読み進めてゆくと、徐々に詠み手に感情が灯ってゆく。
私は、その熱のような実感が、このひたむきな歌人と歌集の訴えであり、救いだと感じた。


ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』

旅行先での淫交は『プラットフォーム』に似た筋立てだし、
救済が宗教へつながる結末は『服従』に近い。
いずれにしても、読むとある意味でスカッとするが心がささくれる、
ウエルベック節が全開の小説だった。


J・M・クッツェー『モラルの話』

クッツェーはかくも対話を描く作家だったか、意外だった。
それにしても、モラルなのか、
あるいは「節度」というべき何かなのか。
人が人とわかり合うとは、何なのか。


五十嵐泰正・開沼博責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』

常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。[...]一言で言うならば「未来のなさ」ではないか。[...]常磐線に何か未来はあるのか。常磐線の路線自体もそうであるし、その沿線の地域についてもそうだ。
(p.289〜290)
開沼博による終章のまとめが、この一見雑駁な論集に、
不思議と通底する何かを浮かび上がらせている。
そう、南千住、柏、水戸、日立、泉、いわき、内郷、富岡の
各駅についての論文やコラムは、
各地域の精いっぱいでちっぽけな特性を描いている。
それらは、振り回されてきた主体性のなさであり、
そうせざるをえなかった立ち位置、とでもいうべきか。
その三者三様のありさまは、結局のところ先行きのなさへ逢着する。
そして、この空気は、まさに現在の日本、いや先進国じゅうで感じられるものだ。

社会が一体性を喪い、ゆっくりと解体して、ばらばらに漂ってゆく感じ。
まさに、町ごとに異なるその解体の経過が、この論集は語っていたように思う。


町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

Amazon kindle版。
どちらも語り手が揺らぐ筋立てで、初期短篇のようだと思った。

5.5.19

2018年夏/安部公房『人間そっくり』、谷崎潤一郎『細雪』『蘆刈』『吉野葛』『金色の死』、バルザック『暗黒事件』、タブッキ『レクイエム』、ウエルベック『服従』、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』

昨年の夏は自分にとって、むしろ冷涼な空調とともに過ぎた。
転居という物質的な変化に始まったものの、
過ぎてみれば、心の引き裂かれる時間だった。

一方、わが小さな命は目を瞠る早さで育っている。
彼は私(たち)と周囲をどんどん飲み込んでいる。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。

人生とは所与の時間であり、どう満たすかでしかない。
その半分は喪われた。残りを何で満たせるだろう?

9.6.18

田川建三『歴史的類比の思想』、ガンジー『ガンジー自伝』

田川建三『歴史的類比の思想』

田川建三の鋭さとは何かというと、命題を読み解く裾野の広さと洞察だと思う。
一つの問題を考えるとき、周辺や類型をも大きく汲み取る。
一般化するも、それが原則ではなくイデオロギーであることを忘れない。
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
この捉え方を会得したいものだ。

「原始キリスト教とアフリカ」では、
古代ローマ帝国と現代アフリカにおけるキリスト教普及を対応させて論じている。
ごく内輪で通じる弱小な母語と、
経済や社会の圏内で生活するためのギリシャ語/英語と、という言語の多重性があり、
支配階級ではない周辺民族のアイデンティティ喪失状態がある。
双方の個別の背景を述べながら、言語と民族と階級という軸で対照する。
アフリカのキリスト教が説教というより絶対的真理であり、
党派的勢力として関心を向けられている、という指摘が興味深かった。
皮肉でなく実態として政教の不可分ではないか。

「ウィリヤム」では、次の指摘がはっとさせられた。
歴史の随所に登場する法則だ。
抑圧の悲劇は抑圧の行為そのものに終るのではない。抑圧する者は、抑圧しているくせに、抑圧の残忍さを身につけることなく、清く美しく生きられるのに、抑圧されている者の方が、かえって、抑圧者の持つべき残忍さの性格までも、おのれの性格として背負いこんでしまうところにある。そして、おのれがもはや抑圧される位置にいなくなっても、身にしみついた抑圧者の残忍さは、持続する性格となって残る。[...]外部からの抑圧の構造が、内側の構造に転化される。(p.88)

「ウェーバーと現代」では、
ウェーバー研究家がウェーバーのみを礼讃する状況を指弾する。
要するに、自分たちの生きている状況の現実から問題を切り出していく、という消耗な、しかしそれをはずしてはすべてが虚妄になる作業は逃げておいて、問題意識自体をウェーバーから借りてくるという姿勢を持続している限りは、ついに翻訳屋でしかありえないし、その翻訳紹介にしたところで、ウェーバー自身をも矮小化してしまうことになるのです。(p.185)
自らが身を置いた文学研究を考えて、刃を突きつけられた心持がした。
カイヨワの同様の「文学」学批判を思い出す。

勁草書房刊、改装版。

ガンジー『ガンジー自伝』

蝋山芳郎訳。中公文庫版。
古い版なので字が小さかったが、読みやすかった。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(通称マハトマ・ガンディー)の、
信仰厚く心優しい少年時代に始まり、
アフリカでのインド人差別との闘い、
そしてインドでの各地での運動について、語られている。

宗教によって育まれた倫理が普遍性を帯びて、
イスラムやキリスト教のような他宗教の指導者とも通じあっている。
闘争の状況下ゆえなのかもしれないが、
普遍的な信念が宗教を越えていたからだと、信じたい
(大インド主義は実現されなかったが)。
市民運動が顔と心情を持っていた、そういう僥倖を遠目に眺める気持で読んだ。