20世紀の暗いユーモアが語った、でも人間味ある物語たちだった。
星新一っぽいかもしれないけれど、
パリやプロヴァンスの舞台や時代、情景は心境とともに、
綺麗に文体に写し取られている。
第一次大戦で一気に突入した、
戦争と総力戦の世紀としての短い20世紀の幕開け、
それと同時に断ち切られた19世紀への望郷が、
ところどころで垣間見えるような気がした。
人はたくましく、都市のグロテスクを生きてゆく。
24.2.10
折口信夫『死者の書』
大津皇子の魂が二上山の墓で目醒め、藤原南家郎女を呼ぶ。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。
大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。
さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。
躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。
旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。
大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。
さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。
躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。
旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。
21.2.10
諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』、アンドレ・ブルトン『ナジャ』
・諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』
子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。
あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。
上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。
脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。
・アンドレ・ブルトン『ナジャ』
« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?
パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。
夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。
子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。
あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。
上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。
脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。
・アンドレ・ブルトン『ナジャ』
« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?
パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。
夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。
14.2.10
諏訪敦彦『M/OTHER』
同棲相手が元妻との子を家に連れてくる。
それがそれでうまく回ると、
男は無意識に「家」の主になってしまう…ということなのか。
M/OTHERってのは、子供から父親の同棲相手を見た微妙な立場のことと思ったが、
子供ができると夫からも同じような立場で見られる、
という閉塞の意味が隠されているのかもしれない、と思った。
閉塞…。
それが垣間見えてしまったから、二人の同棲生活はもう
もとに戻りようもなかったんじゃないか。
気づいたのは、1カットが非常に長いこと。
さらに、カメラワークも最小限なので、アングルが計算されている。
アンドレ・バザンの1シーン1カットの美学を継いで?
しかしそれは良い意味でドラマチックではなく、
ゆえに日常を日常感を失わずに映像に写しとれているように思う。
もっとも、間延びとも云えなくはない。観るのに集中力が要った。
それがそれでうまく回ると、
男は無意識に「家」の主になってしまう…ということなのか。
M/OTHERってのは、子供から父親の同棲相手を見た微妙な立場のことと思ったが、
子供ができると夫からも同じような立場で見られる、
という閉塞の意味が隠されているのかもしれない、と思った。
閉塞…。
それが垣間見えてしまったから、二人の同棲生活はもう
もとに戻りようもなかったんじゃないか。
気づいたのは、1カットが非常に長いこと。
さらに、カメラワークも最小限なので、アングルが計算されている。
アンドレ・バザンの1シーン1カットの美学を継いで?
しかしそれは良い意味でドラマチックではなく、
ゆえに日常を日常感を失わずに映像に写しとれているように思う。
もっとも、間延びとも云えなくはない。観るのに集中力が要った。
petite amie
Je sors avec une fille de dix-neuf ans depuis hier soir.
Je ne dis à personne où et comment nous avons rencontré.
Je ne dis à personne où et comment nous avons rencontré.
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