21.2.10

諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』、アンドレ・ブルトン『ナジャ』

・諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』

子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。

あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。

上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。

脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。


・アンドレ・ブルトン『ナジャ』

« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?

パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。

夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。

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