物語は堕罪府(太宰府か)の、栄華を極めた末に落ちぶれた葦原一家。
太宰府の出自や葦原中国を思わせる名字は神話の日本を思わせる。
例えば、父親・美男は、葦原醜男(大国主)さながらの名前。
真理男は最後に言葉を能記と所記で別々に意識し、生きたために、
とうとう言葉の発露そのもののようなコンピュータになってしまう。
これは言代主の寓意なのだろうか。
だが、だから何だというのだろう。
物語の登場人物の名前を神話から採ると、物語そのものがどうであれ、
神話の寓意あるいは風刺として読まれざるを得なくなる。
神話の物語は細部や感情を削ぎ落とされ、あくまで 叙事的であるために、
寓意の元ネタとしてはかなりの自由度で可変可能なのではないか。
東京に舞台を移しても、ダブリンを描いても、
語りそのものだけでなく深層の神話との二重性で読まれてしまうのだ。
神話との重ね合わせが意味を反響させあう面白さもまた文学だが、
この作品はそういうものではない気がする。
ストーリーは現代にぽっと出てくるには異形だけれども、
でも神話というような創造的な機能とは正反対なのだ。
結局、何を書きたかったんだろう? 血の因果か、言葉の破天荒か?
意味を気にするような文学ではないのだろう。
そうすると、極限までエゴの肥大した主人公が、
まるでメーターが針を振り切って毀れるように、
意識を乗せる言葉そのものを暴走させる物語、とでも要約すればよいか。
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