28.8.11

『アラン・ケイ』、イタロ・カルヴィーノ『パロマー』

○アラン・ケイ『アラン・ケイ』(鶴岡雄二・翻訳、浜野保樹・監修)

アラン・ケイは言わずと知れたゼロックス社パロアルト研究所の研究員で、
次世代の情報端末「ダイナブック」を構想してGUIやWYSIWYGのさきがけとなり、
オブジェクト指向プログラミングを考え出した。

ケイは、コンピュータをメディアと捉えた。
そして、初めて触っても使えるコンピュータを指向し、
パーソナル・コンピュータの概念を定義した。
巨大な汎用コンピュータの時代に、これは先見の明以外の何ものでもない。
ケイが空想的、SF的ではなかったのは、技術的な裏づけや教養による。
マクルーハンをコンピュータの進歩を予想する補助線としたし、
LOGO言語によるコンピュータの教育支援を重要視した。

この本が古典なのは、語られている内容が常に新しいからだ。
例えば一つとして、技術進歩史の普遍性が解き明かされている。
これは教会と聖書というグーテンベルクの技術史に始まり、
テレビによる映画のシェア低下、コンピュータ・ゲームなど、
新消費ジャンルの黎明と普及の一般性だ。
この本はユーザを放置した日本人技術者にぜひ読んで欲しい。
「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことである」
という名言を地で行く、そんなマインドをこの本から読み取ることが出来る。


スティーブ・ジョブズがAppleのCEOを退任する2週間前に本書を読んだ。
だから、タイムリーといえばタイムリーだ。

パロアルト研究所の見学を、ジョブズは自身にとっての
「これまでに起きた最大の事件」と言っている。
ケイのダイナブック構想はジョブズによってAppleに持ち込まれ、
Lisa、Macintosh、NeXTを経て、現在のMac OS Xへと系譜を辿る。
ケイの存在なくして、コンピュータはパソコンにはならなかった。


○イタロ・カルヴィーノ『パロマー』

『見えない都市』のように、物語の外で文学の構築を試みるカルヴィーノは、
ボルヘスほど極端ではないが、近い位置にいる。
文学の重要な位置を物語が占めるが、カルヴィーノにとって文学はさらに広くて、
ものの捉え方や思考様式の実験性だ。
虚実の境目を自由に乗り越えて思考や世界を実験する場。
もっとも、『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』のように、
小説は固より物語外を含めた、思考する空想舞台だった。

『パロマー』は、パロマー氏の思考の記述だ。
パロマー氏の思考は自在で、鳥の眼を借りて街を俯瞰し、
不揃いなサンダルのもう片方の行方を追って時空を超える。
白子のゴリラの人間に似た姿、孤独で不安げな様子を描写し、
爬虫類園から、空調に操られた脆い楽園を、人間のいない世界という人間中心へのアンチテーゼを、読み込む。

「宇宙は、わたしたちが自分のなかで学び知ったことだけを瞑想することのできる鏡なのだ」(Ⅲ・3・2 鏡の宇宙)
パロマー氏は宇宙のすべてを見ようとする。
そして、それが結局はパロマー氏にとっての宇宙でしかないことを知る。

結末は圧巻だ。記憶、記録、そして時間。これらを制御しようとする人間の欲求が、
傲慢とばかりに潰される瞬間で、本書は終わる。

14.8.11

イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』

成人した12歳のときから65歳で死ぬまで、木の上で暮らしたコジモの物語。
木の上の生活、移動、仲間、近隣住民との交流、爵位継承、などなどの物語が
まさに物語として語られる。
木の上から世界を見晴るかしたその生き様は、
あらゆる境界を越えて人間へと向かう素朴で暖かい理想主義者として語られる。

木の上に登った日に出会った少女ヴィオーラとの
甘くも容赦のない情熱のぶつかり合い、その果てのすれ違いから、
愛し合いながらも生き別れる運命が語られる簡潔な描写が最も美しかった。

ヴィオーラを失ってからは17世紀末の近代へと物語が進み、
革命や戦争を経て、コジモは年老いてゆく。
物語は時代を描写して展開を見せるが、ヴィオーラの影から逃れられない。
革命前の不穏な空気を代表して、陳情書を、
しかし皆の希望を書く「陳情幸福帳」を残す下りは象徴的だった。

[...]菓子パンのことを書くもの、野菜スープのもの、金髪の女がいいと言うもの、褐色の毛がいいと言うもの、あるいは一日じゅう寝ていたいものがいれば、きのこがあれば一年じゅうでもいいものもいたし、四頭立ての馬車がほしいと言うものもいれば、やぎ一頭で満足なもの、死んだ母にもう一度会いたいものやら、オリンポスの神々を見てみたいものまでいた。要するに、この世のありとあらゆる良いことが、この帳面に書かれたもしくは描かれた(字のかけないものがたくさんいたから)し、それどころか色つきで描かれた。コジモも書きつけた。ヴィオーラという名前を。数年来、いたるところに書きつけている名前だった。
 りっぱな帳面ができあがった。コジモはこれを《陳情幸福帳》と名づけた。しかしこれがいっぱいになったとき、持って行く議会なぞどこにもなかったので、そのまま木に紐でぶら下げられたままになった。雨が降ると文字が消えて、腐っていき、そのながめは現在の惨めな暮らしを象徴するようでオンブローザの人たちの心をしめつけ、暴動でも起こしたいという気持ちをみなぎらせるのだった。(p.268-269)

10.8.11

網野善彦『中世の非人と遊女』

境界的な身分である供御人、犬神人、法師、河原者を含めた広義の非人と、
傀儡、白拍子といった遍歴女性の遊女についてまとめた論集。
内容の重複もあるが、非人や遊女を芸能や清めを担った職能民であったとする
網野善彦の説を読み取るのに、良い書物だった。

終章に古代から近代までを概観している箇所が、社会史的で非常にわかりやすい。
七世紀の朝廷による中央集権国家の確立とその弱体化により、
公地公民制は荘園制へ移行、二官八省は令外官へ権力を譲る。
土地々々の所有者を背景に別当・預を置く請負制の社会になり、
職務遂行が利益を生むという一つの経済社会の原形が現れる。
この官庁請負制度が、中世の「職」の原型である(p.133)。
非人、遊女は検非違使に統括され、つまり天皇や神社に直属して
祓いや清めを職分とした「職能民」である、と網野はいう。

祓いや清め、芸能といった実利のない職能は
十三世紀の南北朝時代の混乱期に衰退し、
驚異の存在から穢れの存在へ変わっていった。
中央政権のさらなる弱体化で、存在根拠たる天皇・神社の威光を失い、
自治都市や「惣」といった結束が境界的存在を徹底的に排除したためだ。
また、銭貨流通による貨幣経済の浸透と二毛作や牛馬使用など農業生産向上により、
呪術の助けより経済的実利を求める社会へ移行した経緯もある(p.275)。

このとき、まだ辺境だった関東以北では、貨幣経済の浸透が遅れ、
よって非人・遊女への差別意識もさほど芽生えなかった。
被差別民が部落・遊郭に固定化されたのは江戸幕府の政策によるが、
これは十三世紀頃からすでに蔑視に晒されていた階層の定住化政策である。
明治以降に被差別部落問題が近畿に根強く残ったのは、
その長い歴史の中でのことと、網野は示唆する。

4.8.11

今尾恵介『地図で読む戦争の時代』

均一な国土の概念は近代国家の成立要件であって、
その支配と概念普及のため、地図の作成は国家プロジェクトだ。
国土地理院の前身が陸軍参謀本部にあり、
国土の拡大に伴い朝鮮半島、台湾、満州までも測量している事実からも、
その目的の一端は読み取れよう。

そして、現代。日本国とロシアの両邦が主権を主張している北方四島も、
領土であるからには国土地理院が地形図を作成している。
しかし実質的にはロシア領であるため、大正年間の測量の街並が
甘い時代の記憶のようにいまだに残されている現状は、二枚舌を感じさせる。

この事象のように、この本で触れられている"戦争の時代"の幅は広い。
世界中が戦争を経てきたのだから、地図を漁れば戦時中の名残りにぶち当たる。
その広汎な名残りを救い上げて、解説してくれる。
私個人としても地図や路線図を眺めるのが好きだから、
この本を非常に面白く読んだ。

随所に現れるのが第二次大戦中の防諜としての地図改竄だ。
広島の多久野島は毒ガスを生産し、地図から消された島として有名だが、
そのレベルではないにしても地形図の至るところで
「戦時改描」が行われていたとは、初めて知った。
工場が住宅地や空き地などとして書かれ、軍港から等高線の表示が消える。
しかし住民は真実を知っているし、米軍もちゃんと把握して目標を攻撃した。
そして現代に至って、このことを知らない者を額面どおりの誤読へ誘う。

「建物疎開」なるものが行われていたことも知らなかった。
田舎への疎開とは違い、建物疎開は延焼を防ぐため建物を壊して道を拡げること。
そして、それが例えば名古屋の久屋大通になり、
京都の堀川通や御池通を拡げてモータリゼーション対応に役立った。

こういった生活レベルでの多大な犠牲は、意外と我々は知らない。
それを読み取る能力と、その悲しみに共感できる想像力。
作者は両者を多分に持ち合わせた文体で、地図から時勢を掘り起こす。