23.4.12

アッバス・キアロスタミ『風が吹くまま』、金子拓『記憶の歴史学』

アッバス・キアロスタミ『風が吹くまま』

テヘランから500kmのクルド人の山村、黒の谷を意味するシアダレを舞台に、
主人公のTVディレクターがドキュメンタリー撮影のため老婆の死を待つ。
そこの日常にありふれた生と死が、何げないのだけれど輝いていて、
とても心地よいながらも無常を感じた。
優しい無常というのか、それは自然の営みに似ている。
木々がまばらな乾燥地帯という閉じた舞台が、
岩肌に建てられたような村の静かながら生き生きとした感じを伝えるし、
牛や鶏のいる風景が、「この村に電話はいらないよ」という村人の言葉が、
変わらない村の景色を伝える。
そんな中でも、すべては移り変わってゆく。
ファザードは進学を視野にテストでいい点を取ろうと頑張り、
カフェの亭主は口論の末に家を出てゆくし、
間借りの向かいの家には子供が生まれるし、
丘の上、墓近くで男は毎日、恋人の淹れてくれるお茶とともに井戸を掘る。

どうということもないけれど、科白の一つ一つが象徴的に感じられた。
どの木のことかわからない、とか、
道はいくつかあってこれが一番しんどい、とか、
道案内は君じゃないか、でも自分でこっちを選んだんじゃないか、とか。


 金子拓『記憶の歴史学』

この本でいう記憶とは、書き手の現在を取り巻く時勢や立場に応じた史料読解、
ということになるのだろうか。
一次史料がどのように扱われ、改編され、複製されてきたか、
というメタな歴史の読み解きの事例集だった。

副題は「史料に見る戦国」だが、戦国時代のみではなく、
永井荷風『断腸亭日乗』も古川ロッパの日記も登場する。
戦時下の思想統制を恐れた自己改竄、
故実のまとめ直しの際の、当時進行中だった事項の結末の無意識の混濁。

集団の記憶という点では、複数の家での武勲の覚書に出てくる一般名詞化。
これまで自分は、「集団の記憶」なるものに懐疑的だったので、
一般名詞化という具体的な道筋とともにその実態が摑めたという点で、面白かった。

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