20.8.12
ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』、谷崎潤一郎『卍』
アピチャートポン・ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』
ゆっくりと死が受け容れられてゆく映画、とでもいうのか。
死だけではない、過去に亡くなったり失踪した近親も現れて、
生がその寿命をまっとうするようにして、死へと旅立つ。
映像が綺麗だった。幻想的な森の夜もそうだし、
薄暗い食卓やホテルの一室、レストランといった光あふれる日常の居場所も、
ゆっくりと淡々と映される中で、一足外に出ればすぐ闇と森があるような淡さを
なんとなく含んでいるように思える。
ホームビデオの陰っぽさがあったというか、それほどまでではないが、
撮影時の照明を、抑えるか工夫するかしたのではないか、という気がした。
谷崎潤一郎『卍』
谷崎文学は、その生成が気になる。
痴態へずぶずぶとのめり込んでゆき抜け出せなくなるまでの人間模様の搦みあう経緯が、
本当に面白く、息つかせずに読ませる。
『卍』は、五人ほどの登場人物がみな主人公さながらの内面の深さを持って、
群像劇の戯曲のごとく搦みあい、ストーリーの展開のうえでみなうまく生かされていて、
半端な役という者は誰ひとりとしていない。
谷崎文学には未完のまま筆を接がれなかった作品が多いということを、初めて知った。
初期作品を除いて、これまでに読んだ作品はどれも一気に書き連ねた印象を与える。
『痴人の愛』が独白、『卍』が主人公の関西弁での独白の書き取りの体を取り、
『瘋癲老人日記』が片仮名綴りの日記の形として、
いずれも時系列に縛られるというよりは口語に近い自由連想的に流れを左右できる書き口として、
意図的なところなのか。
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