27.8.12
孫崎享『戦後史の正体』
孫崎享『戦後史の正体』
twitterで話題になっていたので、脱退直前の大学生協で購入。
今日の7時に読み始めて、途中に中断もあったが計5時間弱ほどで一気に読んだ。
分かりやすい書き口だったし、のめり込めるほど刺戟的な内容だった。
すべての日本人がこの本を読むべきだと思った。
戦後の日本が、吉田茂・岡崎勝男がサンフランシスコ講和条約後に打ち立てた
徹底的なアメリカ追随路線から抜け出せないまま、
その外交、内政、軍事、経済のすべてをいまだにアメリカの掌中に握られ、
さらにその度合いは強まっているという悲惨の漸進を、
ここまで明快に分析した本は、初めてなのだそうだ。
なぜこれまでなかったのか、という疑問より、
なぜこれまで書かれなかったのか、というほうが、病巣の深さを物語っている。
これまで教わってきた戦後の政治は、
しばしば謎を孕む横槍で流れを絶やしていたが、
この本を読んで、その構造がすべてひとまとまりになって腑に落ちた。
その構造がすべて日米関係の緊張と緩和であり、
横槍はアメリカの圧力による検察とマスコミの動きだったと知った。
昭和電工事件(芦田均首相失脚)、ロッキード事件(田中角栄)、
リクルート事件(竹下登)、陸山会(小沢一郎)などをはじめ、
驚いたのは、60年安保による岸信介辞職も同じ流れだったということだ。
ロシアとの北方領土問題、中国との尖閣諸島問題など、
いま話題のトピックすら、この本は説明してくれた。
日本の原子力の産業と利権は、第五福竜丸による反米世論を封じるために
CIAの後ろ盾を得た正力松太郎ほか読売新聞が掲げた一大キャンペーンによるし
(これは知っていたが)、
ソ連崩壊後に敵を失ったアメリカの「経済的な敵国」とされ、
プラザ合意による円高誘導を経て競争力を失って現在に至る流れは、
TPPなど更なる親米構造の構築圧力へと繋がっている
(これは小泉純一郎の露骨な親米関係と軍事増強から漠然と感じてはいたが)。
戦後の天皇は政治的機能を有しないはずが、
昭和天皇は沖縄の米軍永久駐留を進言しているし、
福田康夫はわれわれ国民の知らないところでファイニーメイへの融資を断って
首相の座を退いていたとは知らなかったし、
橋本龍太郎も鳩山由紀夫も独自路線を模索して短命に終わったとは、
それほどまでにアメリカの圧力が強いとは、まったく知らなかった。
そして、田中角栄がアメリカを出し抜いた日中国交回復によって
失脚させられたという真相ではなく、
石油問題のためであると、今でも誤認されているという。
須田慎太郎『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』と
地続きになった内容だった。
たしかに須田は孫崎の著作をしばしば引用していたし、
その本が私の戦後政治史観を根本から揺さぶるきっかけになった。
本書は
私はいまフランスへの機上にいるが、
この本を、パリにいて今晩会う若い外交官の友人にあげようと思う。
それまでに読了できてよかった。
回顧とはいえ、この本を選んで正解だったと思うし、
彼にとっても非常に有意義であることを半ば確信している。
(この感想は18時間前に作成した)
23.8.12
夏目漱石『倫敦塔』、平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』、秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』
夏目漱石『倫敦塔』
「国破れて山河在」るとき、国はもう記憶にとどめられるまでだ。
そうした記憶の総体として、倫敦塔が黙したまま建っている。
「墓碣と云ひ、紀念碑といひ、賞牌と云ひ、綬章と云ひ此等が存在する限りは、空しき物質に、ありし世を偲ばしむるの具となるに過ぎない。われは去る、われを傳ふるものは殘ると思ふは、去るわれを傷ましむる媒介物の殘る意にて、われ其者の殘る意にあらざるを忘れたる人の言葉と思ふ」
この箇所が、そのことを最も抽出して言っていて心に響いたので、引用しておく。
平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』
短篇集。いずれも漠々として現代の不安を主題にしている。
そういった意味で、平野啓一郎は社会派なのだと思う。
『月蝕』『一月物語』で懐古調を滲ませたときとはまるで違う。
いや、むしろ端正な文体が感情や状況を切り取って呈示してゆく心地よさは、
コンスタンやラディゲに近しく感じる。
「初七日」は、うまく組み立てられた中篇といった感じで、主題の搦みあいがうまい。
戦争、家系、記憶、自分、…。
このうまくいかないもどかしさがあてのない自問自答を繰り広げる文体は、
平野啓一郎の"不安"の描き方なのだと思う。
「最後の変身」で終始する独白が、特にそう感じさせた。
これは、カフカ『変身』論としても読ませるし、
私を含む現代人(大人の御仁にはゆとり世代前後と言った方が良いのかもしれないが)は
ここに叫ばれるバブル期の後処理のやるせなさと、
個性を牽制しあうような風潮が、よくわかる。
それはかつて、酒鬼薔薇聖斗事件に同世代が「共感できる」と答えて
大人たちを震撼させた、その気分だ。
「閉じ込められた少年」は一種の回文となっていて、
文章を一つずつ逆に辿って読んでも同じ作品になるようになっている。
同じ文章の二度目の意味が変じていたりして、意外に面白かった。
秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』
戦前に完成したのは銀座線だけでなく、
他に多くが政府・陸軍の専用線などとして存在したという主張。
いわゆるトンデモ本の一つになろうか。
それでもよく取材されていて、説得力はかなりのものだった。
東海道新幹線も戦前の計画と用地収用があったからこそ
戦後の19年間で開業できたといわれるし、
戦後に栄えた技術を日本が誇ったのも、
軍事的な技術蓄積が民生に転用されたからとされる。
そういった意味でも、東京の地下の多くが
国民に明かされていないまま活用されているというのは、
あり得ないことではないと思った。
残念なのは、決定的な裏づけを欠くこと。
その一歩手前まで迫ってはいるが。
それゆえ、トンデモ本の扱いになってしまっている。
21.8.12
カズオ・イシグロ『夜想曲集』、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6』、内田百閒『御馳走帖』
カズオ・イシグロ『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』
原題は、"NOCTURNES Five Stories of Music and Nightfall"。
夕暮れ──そう、イシグロの小説の醍醐味はそこにある。栄光と今。
物語は一般的にそう回想的に見出だされるものだが、その描き方の切なさが良い。
栄光を引きずってもがき、あるいは挫折し、あるいは身の丈の居場所を探す。
過去は背景と化していて、その浄化作用のような解決が、語りの現在形となる。
これが、この短篇五篇に共通する構造だった。
だから、「モールバンヒルズ』では、語りは音楽家志望の青年であり、
その夢や周辺、モールバンヒルズでの手伝い、老婆の宿が手広く語られるけれども、
あくまで核心はティーロとゾーニャの夫妻なのだ。
さらにいずれも、蓮實重彦の指摘した80年代長篇の共通項「宝探し」に似て、
「依頼→代行」のプロセスが物語のスタートになっていることに気づいた。
このプロセスは、主人公が早急に物語の舞台に祭り上げられて
しかも中心をなすという定石だということが、改めてよくわかった。
講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』
街はみな似た形をしているのに違うし、その差異は歴史を孕んでいるだけでなく、
個々や共同体のかけがえのない揺りかごにも記憶にもなり、サンクチュアリになる。
その意味で、街、都市、風景には興味がある。
その神秘が描かれた小説で初めて読んだのは、
松村栄子『至高聖所(アバトーン)』だった。
この短篇集には収められていないが。
しかし、この聖性が、似たような神秘的な短篇として収められている。
島尾敏雄「摩天楼」、福永武彦「飛ぶ男」、日野啓三「天窓のあるガレージ」。
いずれも、外部をあえて欠いて内部を内省と同化させることで、
舞台を聖別している。
後藤明生の「しんとく問答」は、
最近の町歩きや地名由来の流行をあまりに早く先取りした上で、
その意味を問うているように思われた。
執拗なまでに根拠を問いつめたあげく、最後にはぐらかしてしまう。
この後藤明生らしさは、いったい何の謂いなのか。
根拠の源流など記憶にしかない、ということなのだろうか。
内田百閒『御馳走帖』
これを読んだため、今月14〜16日に岡山へ行った際、
大手まんじゅうを求めずにはいられなかった。
造り酒屋と同様に造酢屋がかつて多く存在したということや、
東京の酢がまずいという意見、明治期の食肉文化の受容なども、面白かった。
やはり文体がとぼけたような大見得を切るような、読んでいて飽きない。
猪の肉とともに脚も送られたため、これで誰かを撫でてやろう、というのが一番笑えた。
鹿肉をもらったために馬肉を買い求めて鍋の会を開いた話などは、
いくつかのエピソードは『まあだだよ』に採られていた。
原題は、"NOCTURNES Five Stories of Music and Nightfall"。
夕暮れ──そう、イシグロの小説の醍醐味はそこにある。栄光と今。
物語は一般的にそう回想的に見出だされるものだが、その描き方の切なさが良い。
栄光を引きずってもがき、あるいは挫折し、あるいは身の丈の居場所を探す。
過去は背景と化していて、その浄化作用のような解決が、語りの現在形となる。
これが、この短篇五篇に共通する構造だった。
だから、「モールバンヒルズ』では、語りは音楽家志望の青年であり、
その夢や周辺、モールバンヒルズでの手伝い、老婆の宿が手広く語られるけれども、
あくまで核心はティーロとゾーニャの夫妻なのだ。
さらにいずれも、蓮實重彦の指摘した80年代長篇の共通項「宝探し」に似て、
「依頼→代行」のプロセスが物語のスタートになっていることに気づいた。
このプロセスは、主人公が早急に物語の舞台に祭り上げられて
しかも中心をなすという定石だということが、改めてよくわかった。
講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』
街はみな似た形をしているのに違うし、その差異は歴史を孕んでいるだけでなく、
個々や共同体のかけがえのない揺りかごにも記憶にもなり、サンクチュアリになる。
その意味で、街、都市、風景には興味がある。
その神秘が描かれた小説で初めて読んだのは、
松村栄子『至高聖所(アバトーン)』だった。
この短篇集には収められていないが。
しかし、この聖性が、似たような神秘的な短篇として収められている。
島尾敏雄「摩天楼」、福永武彦「飛ぶ男」、日野啓三「天窓のあるガレージ」。
いずれも、外部をあえて欠いて内部を内省と同化させることで、
舞台を聖別している。
後藤明生の「しんとく問答」は、
最近の町歩きや地名由来の流行をあまりに早く先取りした上で、
その意味を問うているように思われた。
執拗なまでに根拠を問いつめたあげく、最後にはぐらかしてしまう。
この後藤明生らしさは、いったい何の謂いなのか。
根拠の源流など記憶にしかない、ということなのだろうか。
内田百閒『御馳走帖』
これを読んだため、今月14〜16日に岡山へ行った際、
大手まんじゅうを求めずにはいられなかった。
造り酒屋と同様に造酢屋がかつて多く存在したということや、
東京の酢がまずいという意見、明治期の食肉文化の受容なども、面白かった。
やはり文体がとぼけたような大見得を切るような、読んでいて飽きない。
猪の肉とともに脚も送られたため、これで誰かを撫でてやろう、というのが一番笑えた。
鹿肉をもらったために馬肉を買い求めて鍋の会を開いた話などは、
いくつかのエピソードは『まあだだよ』に採られていた。
20.8.12
ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』、谷崎潤一郎『卍』
アピチャートポン・ウィーラセータクン『ブンミおじさんの森』
ゆっくりと死が受け容れられてゆく映画、とでもいうのか。
死だけではない、過去に亡くなったり失踪した近親も現れて、
生がその寿命をまっとうするようにして、死へと旅立つ。
映像が綺麗だった。幻想的な森の夜もそうだし、
薄暗い食卓やホテルの一室、レストランといった光あふれる日常の居場所も、
ゆっくりと淡々と映される中で、一足外に出ればすぐ闇と森があるような淡さを
なんとなく含んでいるように思える。
ホームビデオの陰っぽさがあったというか、それほどまでではないが、
撮影時の照明を、抑えるか工夫するかしたのではないか、という気がした。
谷崎潤一郎『卍』
谷崎文学は、その生成が気になる。
痴態へずぶずぶとのめり込んでゆき抜け出せなくなるまでの人間模様の搦みあう経緯が、
本当に面白く、息つかせずに読ませる。
『卍』は、五人ほどの登場人物がみな主人公さながらの内面の深さを持って、
群像劇の戯曲のごとく搦みあい、ストーリーの展開のうえでみなうまく生かされていて、
半端な役という者は誰ひとりとしていない。
谷崎文学には未完のまま筆を接がれなかった作品が多いということを、初めて知った。
初期作品を除いて、これまでに読んだ作品はどれも一気に書き連ねた印象を与える。
『痴人の愛』が独白、『卍』が主人公の関西弁での独白の書き取りの体を取り、
『瘋癲老人日記』が片仮名綴りの日記の形として、
いずれも時系列に縛られるというよりは口語に近い自由連想的に流れを左右できる書き口として、
意図的なところなのか。
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