カズオ・イシグロ『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』
原題は、"NOCTURNES Five Stories of Music and Nightfall"。
夕暮れ──そう、イシグロの小説の醍醐味はそこにある。栄光と今。
物語は一般的にそう回想的に見出だされるものだが、その描き方の切なさが良い。
栄光を引きずってもがき、あるいは挫折し、あるいは身の丈の居場所を探す。
過去は背景と化していて、その浄化作用のような解決が、語りの現在形となる。
これが、この短篇五篇に共通する構造だった。
だから、「モールバンヒルズ』では、語りは音楽家志望の青年であり、
その夢や周辺、モールバンヒルズでの手伝い、老婆の宿が手広く語られるけれども、
あくまで核心はティーロとゾーニャの夫妻なのだ。
さらにいずれも、蓮實重彦の指摘した80年代長篇の共通項「宝探し」に似て、
「依頼→代行」のプロセスが物語のスタートになっていることに気づいた。
このプロセスは、主人公が早急に物語の舞台に祭り上げられて
しかも中心をなすという定石だということが、改めてよくわかった。
講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見6 変貌する都市』
街はみな似た形をしているのに違うし、その差異は歴史を孕んでいるだけでなく、
個々や共同体のかけがえのない揺りかごにも記憶にもなり、サンクチュアリになる。
その意味で、街、都市、風景には興味がある。
その神秘が描かれた小説で初めて読んだのは、
松村栄子『至高聖所(アバトーン)』だった。
この短篇集には収められていないが。
しかし、この聖性が、似たような神秘的な短篇として収められている。
島尾敏雄「摩天楼」、福永武彦「飛ぶ男」、日野啓三「天窓のあるガレージ」。
いずれも、外部をあえて欠いて内部を内省と同化させることで、
舞台を聖別している。
後藤明生の「しんとく問答」は、
最近の町歩きや地名由来の流行をあまりに早く先取りした上で、
その意味を問うているように思われた。
執拗なまでに根拠を問いつめたあげく、最後にはぐらかしてしまう。
この後藤明生らしさは、いったい何の謂いなのか。
根拠の源流など記憶にしかない、ということなのだろうか。
内田百閒『御馳走帖』
これを読んだため、今月14〜16日に岡山へ行った際、
大手まんじゅうを求めずにはいられなかった。
造り酒屋と同様に造酢屋がかつて多く存在したということや、
東京の酢がまずいという意見、明治期の食肉文化の受容なども、面白かった。
やはり文体がとぼけたような大見得を切るような、読んでいて飽きない。
猪の肉とともに脚も送られたため、これで誰かを撫でてやろう、というのが一番笑えた。
鹿肉をもらったために馬肉を買い求めて鍋の会を開いた話などは、
いくつかのエピソードは『まあだだよ』に採られていた。
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