ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』
一状況を描くことで問いかけることが小説の特権だと、あらためて思った。
この作品はベケット『ゴドーを待ちながら』によく似ている。
見棄てられた国境の砦で、永遠に来ない敵を待ちながら一生を棒に振る軍人。
あまりに虚しいこの物語は、仕事が生きがいのサラリーマンを譬えていないか。
永遠に来ない敵を見張るという無駄な行為は、完璧主義の一側面ではないか。
心理描写も行き届いているし、構成も巧かった。
非常におもしろく読んだ。
井上章一『つくられた桂離宮神話』
あとがきで作者が述べるように、
「時代が私を束縛する」という好例としての桂離宮が時代考証される。
こういった、先入観を水垢離するような著作は、おもしろい。
ブルーノ・タウトがモダニズムを図らずも代弁して、
日本美=質素な美意識、という国粋趣味を裏づけるまで。
さらに、建築史から離れて、旅行者などが桂離宮をどう捉えていたか、など、
建築界と旅行ガイドとの乖離もまた、学術と世間一般との関係性からも、
おもしろかった。
結局、人は何らかの権威や時代に縋って判断をしている。
桂離宮は一昨日に参観した。
インターネット申込の定員はあまりに限られているそうで、
先週に京都御苑内の宮内庁事務所で修学院離宮、仙洞御所とともに予約した。
人口に膾炙しているだけの見応えも感動もなく、
あまりの見立ての多さと、毒抜きされた細部までのしつこいこだわりが、
おおぜいのグループ参観の足取りに乗ってせかせかと開陳されただけだった。
愛でられた箱庭、という印象だった。
ガイドが逐一説明する随所の来歴は、いちいち参観者を頷かせていて、
カラスの屍骸が転がっていたとしてもしげしげと鑑賞しそうなくらいだった。
参観ルートが書院内に入らなかったため、桂棚は見られなかった。
同日に行った修学院離宮は、山と街並みを縮景に取り入れ、
しかも農村風景に溶け込んだ田舎の名家という趣でおもしろかった。
明くる昨日、仙洞御所は桂離宮ほどぎっしり詰め込まれた感がないぶん、まだよかった。
26.12.13
19.12.13
『共感覚の世界観』「弘前の秩父宮」『イタリア広場』『夢のなかの夢』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』『冥途めぐり』『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
原田武『共感覚の世界観』
心理学・行動科学的な書物ではあっても、
かつ文藝評論的で面白かった。
ランボーの「母音」をはじめ、
共感覚的レトリックの分析が散りばめられ、
それだけでも充分におもしろく読めた。
共感覚表現の方向性として、
転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚→熱覚」の順に進む
(例:「暖かい色」(触覚→視覚)、「甘い声」(味覚→嗅覚))、
という言語学者ウルマン他の説が紹介される。
共感覚の幻想的な、現実の割れ目のような効果は、
五感の及ばないところに感覚を見出だそうとして立ち現れる。
また、尾崎翠『第七官界彷徨』を引いて、
「思いがけないもの同士を結びつけ、私たちの日常に予期しない新しさと驚きを導き入れる」
「人間がすべてについて偏見を持たず、カテゴリー間にそれほど神経質ではなかった原初の世界」を垣間見せる、
そう共感覚的世界を表現する。
共感覚が商品開発に援用されているという事例も挙げている。
シリアルの砕く歯触り、飛行機内の香りと色の調和、などは、
ブランド確立のための相乗効果だという。
茂木謙之介「弘前の秩父宮」
『歴史評論』(2013年10月)からの抜刷版。
副題は「戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開」。
あくまで憶測だけれども、1935〜1936年という時期が、
秩父宮が弘前においてシンボル化され、
かつ急速に歴史化されるという現象を生む上での、
大きな素地になっているのではないだろうか。
つまり、日中戦争前夜の軍事的お祭りムードが当時の日本を覆っていて、
秩父宮が弘前に軍人として赴任することが、
一つの時代の具現化だったのではないか。
というのは、大正期や太平洋戦争開戦後であれば、
おそらく少し違った受容が秩父宮に訪れたのではないか、そう考える。
アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(再読)
細部が語られない全体を語り、
語られた部分々々が間の語られない部分を大いに語る。
初めにエピローグが置かれるように、
そして、占い師ゼルミーラがいうように、時間の流れが幻想的。
文学は小説によって時間を掌握すべきだ。
詩のようなリズムではなく、歴史的な時間を。
アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』
藝術家たちの見たであろう夢が、想像で描かれる。
気の効いた短篇集になっている。
ガルガンチュアとともに素晴らしい夕食を味わうラブレーの夢が、
一番気に入った。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
RPGかライトノベルか。これはもはや春樹でも小説でもない気がする。
村上春樹は細部の作りが細かいはずなのに、
ストーリーに引っぱられてそういったところは抑制されている。
この小説が何を言おうとしているのか。
それは、次の二箇所だと思う。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」(p.40)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p.307)
これが、日本の戦後への村上春樹の問いかけであることを、
私は心から望む。
ちなみに、アカ、アオ、シロ、クロの四人の登場人物の色は、
庄司薫の四部作のそれぞれと一致している。
川田宇一郎の評論「由美ちゃんとユミヨシさん」の指摘がここまで及んでいる、
そう思った。
あるいは、穿ちすぎているかもしれない。
鹿島田真希『冥途めぐり』
鹿島田真希の、思考の進行が行動を引っぱってゆくような、
そういったドライブ感は、少しだけ抑制されている。
こういうおとなしくなった小説が、芥川賞向けということなのかもしれない。
作者の私生活に基づいた小説だが、
惨めな家族という別の主軸がしっかりと打ち据えられていて、
その哀れさが痛々しいくらい滲み出て、おもしろかった。
併録作は、鹿島田真希らしい小品という感じ。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
町田康が女性歌手ならこんな感じなのだろうな、というのを地で行っている。
実際、歌手でもあるし。
町田康の主題は「生活」だが、川上未映子は「存在」と「身体」だ。
併録作も『乳と卵』もそうだが、川上未映子は終盤になって他者の目が割り込む。
『ヘヴン』ではその他者がいじめの側として大きく存在している。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、
起承転結の後半部を委ねるようにして他者がいきなり現れる。
他者は語りを終わらせるためのデウス・エクス・マキナのようだ。
心理学・行動科学的な書物ではあっても、
かつ文藝評論的で面白かった。
ランボーの「母音」をはじめ、
共感覚的レトリックの分析が散りばめられ、
それだけでも充分におもしろく読めた。
共感覚表現の方向性として、
転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚→熱覚」の順に進む
(例:「暖かい色」(触覚→視覚)、「甘い声」(味覚→嗅覚))、
という言語学者ウルマン他の説が紹介される。
共感覚の幻想的な、現実の割れ目のような効果は、
五感の及ばないところに感覚を見出だそうとして立ち現れる。
また、尾崎翠『第七官界彷徨』を引いて、
「思いがけないもの同士を結びつけ、私たちの日常に予期しない新しさと驚きを導き入れる」
「人間がすべてについて偏見を持たず、カテゴリー間にそれほど神経質ではなかった原初の世界」を垣間見せる、
そう共感覚的世界を表現する。
共感覚が商品開発に援用されているという事例も挙げている。
シリアルの砕く歯触り、飛行機内の香りと色の調和、などは、
ブランド確立のための相乗効果だという。
茂木謙之介「弘前の秩父宮」
『歴史評論』(2013年10月)からの抜刷版。
副題は「戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開」。
あくまで憶測だけれども、1935〜1936年という時期が、
秩父宮が弘前においてシンボル化され、
かつ急速に歴史化されるという現象を生む上での、
大きな素地になっているのではないだろうか。
つまり、日中戦争前夜の軍事的お祭りムードが当時の日本を覆っていて、
秩父宮が弘前に軍人として赴任することが、
一つの時代の具現化だったのではないか。
というのは、大正期や太平洋戦争開戦後であれば、
おそらく少し違った受容が秩父宮に訪れたのではないか、そう考える。
アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(再読)
細部が語られない全体を語り、
語られた部分々々が間の語られない部分を大いに語る。
初めにエピローグが置かれるように、
そして、占い師ゼルミーラがいうように、時間の流れが幻想的。
文学は小説によって時間を掌握すべきだ。
詩のようなリズムではなく、歴史的な時間を。
アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』
藝術家たちの見たであろう夢が、想像で描かれる。
気の効いた短篇集になっている。
ガルガンチュアとともに素晴らしい夕食を味わうラブレーの夢が、
一番気に入った。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
RPGかライトノベルか。これはもはや春樹でも小説でもない気がする。
村上春樹は細部の作りが細かいはずなのに、
ストーリーに引っぱられてそういったところは抑制されている。
この小説が何を言おうとしているのか。
それは、次の二箇所だと思う。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」(p.40)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p.307)
これが、日本の戦後への村上春樹の問いかけであることを、
私は心から望む。
ちなみに、アカ、アオ、シロ、クロの四人の登場人物の色は、
庄司薫の四部作のそれぞれと一致している。
川田宇一郎の評論「由美ちゃんとユミヨシさん」の指摘がここまで及んでいる、
そう思った。
あるいは、穿ちすぎているかもしれない。
鹿島田真希『冥途めぐり』
鹿島田真希の、思考の進行が行動を引っぱってゆくような、
そういったドライブ感は、少しだけ抑制されている。
こういうおとなしくなった小説が、芥川賞向けということなのかもしれない。
作者の私生活に基づいた小説だが、
惨めな家族という別の主軸がしっかりと打ち据えられていて、
その哀れさが痛々しいくらい滲み出て、おもしろかった。
併録作は、鹿島田真希らしい小品という感じ。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
町田康が女性歌手ならこんな感じなのだろうな、というのを地で行っている。
実際、歌手でもあるし。
町田康の主題は「生活」だが、川上未映子は「存在」と「身体」だ。
併録作も『乳と卵』もそうだが、川上未映子は終盤になって他者の目が割り込む。
『ヘヴン』ではその他者がいじめの側として大きく存在している。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、
起承転結の後半部を委ねるようにして他者がいきなり現れる。
他者は語りを終わらせるためのデウス・エクス・マキナのようだ。
1.12.13
ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』、多木浩二『生きられた家』、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、絲山秋子『沖で待つ』、米澤泉『コスメの時代』
ヤコブ・フォン・ユクスキュル/ゲオルグ・クリサート『生物から見た世界』
環境そのものは知覚できず、生物それぞれの知覚が認識できる環世界(Umwelt)がある。
環世界において、主体は知覚世界を知覚器官で知覚し、
作用世界を作用器官で作用させる。
こうして客体は知覚され作用される。
知覚器官が作用器官へ繋がる部分こそが主体である。
この機能環は、神経の接点が主体の要であり、
脊髄や脳といった神経器官がもとは
神経の接点にすぎなかったという進化論的観点にも通じる。
環世界の概念は生物学をデカルト的な二元論から解き放ち、
人間を生物の中に置いて相対化させた。
だが、魔術的環世界という先天的な作用世界の存在を紹介していて、
本能という概念を否定していることと矛盾しているように思われた。
多木浩二『生きられた家 経験と象徴』
家はもともと外界を壁と屋根で仕切った空間にすぎない。
それは同時に、プライベートという特権的な空間に位置づけられ、各機能に分化され、
故郷の概念を附与され、あるいはムラや国家といった共同体との象徴関係におかれる。
家とは、あるいは住むとは、なんとも自明でありかつ捉えがたい。
この多重性すべてをひっくるめて語っているところが、この本を読み進めるうえで面白かった。
「家は広い意味でも技術を蓄積し、長い世代の人間に伝達してきたのであるそういう意味では、家は外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な感性の基準となるべきものにいたるまでが記入された書物であった」(p.15)
折しも、十一月初旬に京都御所北の冷泉家住宅を観る機会があった。
竈(くど)には荒神棚が祀られ、玄関は迎えるものの身分に応じて三つあり、
プライベート空間は隅へ追いやられている。
それは住む家というだけでなく、
日本の貴族文化が合理性と精神性をどう捉えていたかという根源に関わる。
それを見せつけられた気がした。
(そして、その住宅がもはや本来の目的ではなく
保存のために存続・公開されていることは、
日本の貴族文化がすでに死んで博物館に収められていることを意味する)
また、空間と言語の類縁性において、トポスは自我である。
「空間を枠として行為を展開するというより、行為は空間として構造化される」
という指摘は、生物学的というよりは生成論的だ。
「このような空間化能力は、ルロワ=グーラン流にいえば、言語能力とも、身体的(技術的)能力とも結びついたプログラムとして保有され、また文化のなかに外化された記憶として刻みつけられ、人間は学習によって空間としての文化を身につけていくのである。このように生が空間化することが、建築を非言語的、空間的なテキスト(象徴の生成)として読みうる理由であり、テキストがまたつねに空間的である理由なのである」(p.73)
よって、建築様式は文化論的・人類学的に観察される。
川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』
初期作品よりも、小説的にお上品に纏まってしまったように感じられた。
『乳と卵』にあったような、言葉がリズミカルかつ大胆に歌い上げる文体は、
川上弘美みたいな透き通った文体の向こうへ消えてしまった気がする。
確かに、文章も細部も巧いけれど、型に嵌まった気がする。
その意味で、川上未映子は詩人から小説家になってしまった。
終盤、三束さんが姿を消し、聖と急激に仲を取り戻すところは、
自らいくつも連立させた方程式をついに解けなかった先の落ち着けどころ、という心地だった。
絲山秋子『沖で待つ』
表題作は、短篇として面白かった。
逆に、今(いや、一時代前?)の時代だから、
会社の同期という不思議な仲間意識が面白いのだろうし、
文学というより短篇小説だな、と思った。
ここに馴染めない人間は綿矢りさを読めばいい、そういう二者択一。
私はそもそも、黒井千次を択ぶ。
表題作以外には、「勤労感謝の日」「みなみのしまのぶんたろう」。
まぁ、なんとも。
米澤泉『コスメの時代 「私遊び」の現代文化論』
八十年代以降の日本大衆文化の推移が、
これまで具体的、綿密かつ大胆に分析された本を、読んだことはなかった。
その意味で、文学における物語が八十年代に終わったこと
(田中康夫『なんとなく、クリスタル』や小林恭二『小説伝』)や、
ラノベのような私過剰のキャラクター小説が拡がっていることと、
並行を見出ださずにはいられなかった。
序盤の「はしがき」が、本書のすべてを概説している。
「まず序章において、八〇年代以降のファッションと化粧の流れを概略的に述べる。その後、ファッションから化粧へというシフトが起こった理由を考えるために、少女、ファッション誌とそのモデル、ブランド、フレグランス、フリークという五つの事例を俎上に載せていく。
第一章では、少女と少女文化の消滅の過程を辿り、中高生はもちろん、小学生までもが化粧をするようになった理由を考察する。第二章では、八〇年代には一つの完結した物語を作り上げていたファッション誌が、九〇年代にどのように崩壊し、ただのモデル情報誌、通販カタログとしてしか機能しなくなったのかという経緯を追う。第三章では衣服というものの意味づけが八〇年代から九〇年代にかけていかに変化したか、具体的にはいわゆるDCブランド服がどのように魔法を解かれてリアルクローズとなったかを、それぞれの時代を代表するブランドの服をもとに検証する。第四章では、主にフレグランスの名前に焦点を当てて、その移り変わりのなかにフレグランスを纏う私の変容を読み解く。そして、第五章では、ファッションから化粧へのシフトにおいて、看過できない存在となったコスメフリークについて分析し、彼女たちが同時期に一般化したオタクと表裏一体の存在であることを明らかにする」(p.ii)
未来を見出だせなくなった元・少女たちが
今や内輪を最優先するコミュニケーションツール、として
ガングロを分析するところは、特に面白かった。
物語(として商品を売ること)の終焉と、
日常性の最重視は、その時代から何も変わらない。
むしろ、インターネットの力を借りて、
その短サイクルはさらに輪をかけているように感じられる。
環境そのものは知覚できず、生物それぞれの知覚が認識できる環世界(Umwelt)がある。
環世界において、主体は知覚世界を知覚器官で知覚し、
作用世界を作用器官で作用させる。
こうして客体は知覚され作用される。
知覚器官が作用器官へ繋がる部分こそが主体である。
この機能環は、神経の接点が主体の要であり、
脊髄や脳といった神経器官がもとは
神経の接点にすぎなかったという進化論的観点にも通じる。
環世界の概念は生物学をデカルト的な二元論から解き放ち、
人間を生物の中に置いて相対化させた。
だが、魔術的環世界という先天的な作用世界の存在を紹介していて、
本能という概念を否定していることと矛盾しているように思われた。
多木浩二『生きられた家 経験と象徴』
家はもともと外界を壁と屋根で仕切った空間にすぎない。
それは同時に、プライベートという特権的な空間に位置づけられ、各機能に分化され、
故郷の概念を附与され、あるいはムラや国家といった共同体との象徴関係におかれる。
家とは、あるいは住むとは、なんとも自明でありかつ捉えがたい。
この多重性すべてをひっくるめて語っているところが、この本を読み進めるうえで面白かった。
「家は広い意味でも技術を蓄積し、長い世代の人間に伝達してきたのであるそういう意味では、家は外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な感性の基準となるべきものにいたるまでが記入された書物であった」(p.15)
折しも、十一月初旬に京都御所北の冷泉家住宅を観る機会があった。
竈(くど)には荒神棚が祀られ、玄関は迎えるものの身分に応じて三つあり、
プライベート空間は隅へ追いやられている。
それは住む家というだけでなく、
日本の貴族文化が合理性と精神性をどう捉えていたかという根源に関わる。
それを見せつけられた気がした。
(そして、その住宅がもはや本来の目的ではなく
保存のために存続・公開されていることは、
日本の貴族文化がすでに死んで博物館に収められていることを意味する)
また、空間と言語の類縁性において、トポスは自我である。
「空間を枠として行為を展開するというより、行為は空間として構造化される」
という指摘は、生物学的というよりは生成論的だ。
「このような空間化能力は、ルロワ=グーラン流にいえば、言語能力とも、身体的(技術的)能力とも結びついたプログラムとして保有され、また文化のなかに外化された記憶として刻みつけられ、人間は学習によって空間としての文化を身につけていくのである。このように生が空間化することが、建築を非言語的、空間的なテキスト(象徴の生成)として読みうる理由であり、テキストがまたつねに空間的である理由なのである」(p.73)
よって、建築様式は文化論的・人類学的に観察される。
川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』
初期作品よりも、小説的にお上品に纏まってしまったように感じられた。
『乳と卵』にあったような、言葉がリズミカルかつ大胆に歌い上げる文体は、
川上弘美みたいな透き通った文体の向こうへ消えてしまった気がする。
確かに、文章も細部も巧いけれど、型に嵌まった気がする。
その意味で、川上未映子は詩人から小説家になってしまった。
終盤、三束さんが姿を消し、聖と急激に仲を取り戻すところは、
自らいくつも連立させた方程式をついに解けなかった先の落ち着けどころ、という心地だった。
絲山秋子『沖で待つ』
表題作は、短篇として面白かった。
逆に、今(いや、一時代前?)の時代だから、
会社の同期という不思議な仲間意識が面白いのだろうし、
文学というより短篇小説だな、と思った。
ここに馴染めない人間は綿矢りさを読めばいい、そういう二者択一。
私はそもそも、黒井千次を択ぶ。
表題作以外には、「勤労感謝の日」「みなみのしまのぶんたろう」。
まぁ、なんとも。
米澤泉『コスメの時代 「私遊び」の現代文化論』
八十年代以降の日本大衆文化の推移が、
これまで具体的、綿密かつ大胆に分析された本を、読んだことはなかった。
その意味で、文学における物語が八十年代に終わったこと
(田中康夫『なんとなく、クリスタル』や小林恭二『小説伝』)や、
ラノベのような私過剰のキャラクター小説が拡がっていることと、
並行を見出ださずにはいられなかった。
序盤の「はしがき」が、本書のすべてを概説している。
「まず序章において、八〇年代以降のファッションと化粧の流れを概略的に述べる。その後、ファッションから化粧へというシフトが起こった理由を考えるために、少女、ファッション誌とそのモデル、ブランド、フレグランス、フリークという五つの事例を俎上に載せていく。
第一章では、少女と少女文化の消滅の過程を辿り、中高生はもちろん、小学生までもが化粧をするようになった理由を考察する。第二章では、八〇年代には一つの完結した物語を作り上げていたファッション誌が、九〇年代にどのように崩壊し、ただのモデル情報誌、通販カタログとしてしか機能しなくなったのかという経緯を追う。第三章では衣服というものの意味づけが八〇年代から九〇年代にかけていかに変化したか、具体的にはいわゆるDCブランド服がどのように魔法を解かれてリアルクローズとなったかを、それぞれの時代を代表するブランドの服をもとに検証する。第四章では、主にフレグランスの名前に焦点を当てて、その移り変わりのなかにフレグランスを纏う私の変容を読み解く。そして、第五章では、ファッションから化粧へのシフトにおいて、看過できない存在となったコスメフリークについて分析し、彼女たちが同時期に一般化したオタクと表裏一体の存在であることを明らかにする」(p.ii)
未来を見出だせなくなった元・少女たちが
今や内輪を最優先するコミュニケーションツール、として
ガングロを分析するところは、特に面白かった。
物語(として商品を売ること)の終焉と、
日常性の最重視は、その時代から何も変わらない。
むしろ、インターネットの力を借りて、
その短サイクルはさらに輪をかけているように感じられる。
4.11.13
『住宅とは何か』、開沼博『漂白される社会』
アトリエ・ワン、青木淳悟、五十嵐太郎、石上純也、乾久美子、植田実、菊池宏、北山恒、隈研吾、塚本由晴、富永譲、中井邦夫、中山英之、西沢立衛、長谷川豪、藤本壮介、藤森照信、堀部安嗣、八束はじめ『住宅とは何か』
X-knowledgeという建築系出版社の刊で、インタビューや対談を主とした構成。
若手建築家へのインタビューのなかで、菊池宏や の謂いは興味深かった。
菊池宏は、東京のジャンク化した風景の整理を課題として掲げたうえで、
「こんなに汚い東京でも光だけはちゃんと入ってきてくれて、やっぱり大事にできる」
と、スイスにいた経験から日本の都市を語る(p.101)。
商業施設の内装デザインを長く担ってきた乾久美子は、
「商業建築は非商業と徹底的に違う点があって、それは人間を動物扱いするすることがあからさまだということです。商業空間のなかで人は無茶苦茶視野が狭くなっていて、気になる商品以外は何も見ていない。人に見られていることなどすっかり忘れてしまって、本能の赴くままというか、理性的とは言いがたい行動を皆とってしまっている。商売している人はそうした本能を捕まえるプロみたいなものでして、オトリ漁みたいに餌としての商品をバラまく方法を知っているんです」(p.107)
と語る。
五十嵐太郎、中井邦夫のようなプロフェッサー・アーキテクトの言も
建築史の文脈をきっちりと捉えていて読み応えがあるが、
それ以上に、実感の伴う言説は重い。
開沼博『漂白される社会』
この本は、現代社会で見えなくなりながらも確かにする周縁に材を取り、
それらが社会外から社会内部へと溶け込みつつ潜在化する現象を「漂白」と定義する。
そして、綿密な取材をしつつ、従来から現在の形へと漂白された推移を分析する。
まず、文体レベルでの感想。
いわば過剰で自由度のない劇場型の文体に、どうしても読めた。
もっとも、このことは、完全な全体図を提示できないがゆえ、
語り手による捕捉や解釈が不可欠だったということなのかもしれないが。
続いて、内容レベルでの感想。
売春島、ホームレスギャル、シェアハウス、生活保護、
売春、違法ギャンブル、脱法ドラッグ、右翼団体、左翼過激派、
偽造結婚、ブラジル系移民、中国エステの、12のトピックが扱われている。
X-knowledgeという建築系出版社の刊で、インタビューや対談を主とした構成。
若手建築家へのインタビューのなかで、菊池宏や の謂いは興味深かった。
菊池宏は、東京のジャンク化した風景の整理を課題として掲げたうえで、
「こんなに汚い東京でも光だけはちゃんと入ってきてくれて、やっぱり大事にできる」
と、スイスにいた経験から日本の都市を語る(p.101)。
商業施設の内装デザインを長く担ってきた乾久美子は、
「商業建築は非商業と徹底的に違う点があって、それは人間を動物扱いするすることがあからさまだということです。商業空間のなかで人は無茶苦茶視野が狭くなっていて、気になる商品以外は何も見ていない。人に見られていることなどすっかり忘れてしまって、本能の赴くままというか、理性的とは言いがたい行動を皆とってしまっている。商売している人はそうした本能を捕まえるプロみたいなものでして、オトリ漁みたいに餌としての商品をバラまく方法を知っているんです」(p.107)
と語る。
五十嵐太郎、中井邦夫のようなプロフェッサー・アーキテクトの言も
建築史の文脈をきっちりと捉えていて読み応えがあるが、
それ以上に、実感の伴う言説は重い。
開沼博『漂白される社会』
この本は、現代社会で見えなくなりながらも確かにする周縁に材を取り、
それらが社会外から社会内部へと溶け込みつつ潜在化する現象を「漂白」と定義する。
そして、綿密な取材をしつつ、従来から現在の形へと漂白された推移を分析する。
まず、文体レベルでの感想。
読み進めながら、どうしても週刊誌的な文体に馴染めなかった。
頻繁に改行し、一つ一つの文章は短く反復的で、描写と推論の癒着した文体だ。
著者自身はこの文体を次のように述べている。
「ある種の「物語仕立ての文体」を採用することで、学術的な手続きが十分になされていないと指摘されるかもしれないが、こうした形式によってこそ、「周縁的な存在」のそれぞれが持つあり様の詳細をより豊かに伝えられると考えている」(p.75)
だが、物語仕立てのナレーションが肥大し、読者が想起すべき抒情を持ち去っている。いわば過剰で自由度のない劇場型の文体に、どうしても読めた。
もっとも、このことは、完全な全体図を提示できないがゆえ、
語り手による捕捉や解釈が不可欠だったということなのかもしれないが。
続いて、内容レベルでの感想。
売春島、ホームレスギャル、シェアハウス、生活保護、
売春、違法ギャンブル、脱法ドラッグ、右翼団体、左翼過激派、
偽造結婚、ブラジル系移民、中国エステの、12のトピックが扱われている。
いずれにしても、日常の社会のすぐそばにあって、
それでいて実態どころか存在すら見えてこない。
深く切り込んで取材していて、面白かった。
また、社会の風景を何気なく眺める視線が、
無意識に社会外を斬り捨てて見ないようにしていると、気づかされた。
人は都合のよいもの、解釈可能なものしか見ない。
31.10.13
夏目漱石『虞美人草』、アントニオ・タブッキ『逆さまゲーム』、夢野久作『少女地獄』、太宰治短篇集、クリストファー・マーロウ『エドワード二世』、森鷗外『渋江抽斎』
夏目漱石『虞美人草』
擬古文調で読みにくかった。
が、漢詩も作った漱石が書きたかった小説なのだろう。
漱石の中期以降の作品によく主題とされる三角関係が主題的に顔を出すが、
評論めいた文章も随所に散りばめられて、そちらも読ませる。
理論と物語が一致するクライマックスは、『草枕』を髣髴とさせた。
終盤はほぼ人生論だ。
「問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である」
だがむしろ、宗近君がロンドンから短く返す「ここでは喜劇ばかり流行る」は、
西欧と文明について沈思した漱石が、
近代日本に対して放ったもっとも鋭い警句だろう。
アントニオ・タブッキ『逆さまゲーム』
タブッキらしいトリックが「逆さま」に込められていて、
だが、それは仄かに感じるといった程度だった。
正直いって、それをあまり読み取れなかった。
それよりも、人の弱さのような余情が常に作品から漂ってきて、
その趣きにそっと耳を傾けるような小品が、なんとも心地よかった。
作品は20世紀初頭だが、『ペドロ・パラモ』の死者の問わず語りのような、
ある種の普遍性が、墓から語りかけるような文体だった。
夢野久作『少女地獄』
少女をめぐる三短篇の連作。
夢野久作の作品の例に漏れず、いずれも書簡形。
そのため回想的になり、よってしばしば時系列を無視して結論が仄めかされる。
これがおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
あとで粗筋を追えば感情なく思い返せるが、
自殺や迫る刃といったクライマックスをすぐ前にした緊迫した状態で語り始められ、
一人称で最後までずっと緊迫している、
その文体がもっとも読ませる。
太宰治 短篇集
ちくま日本文学シリーズの一。
「ロマネスク」のような初期作品から「桜桃」など晩年の作品まで収録し、
分量としては「女生徒」「カチカチ山」など精神安定期(?)が多い印象。
津島修治の小説はあまり読まずにきた。
しかし、いざまとめて読んでみると、惜しかったとも思う。
「新釈諸国噺」「お伽草紙」を読むと、太宰はやはり戯作派だと思う。
一方、「親友交歓」「桜桃」「ヴィヨンの妻」を読むと、
戯作派の類でありながら、同時に、
自他に絶えず浴びせた冷徹な視線を感じざるを得ない。
この両義性が、太宰治の魅力なんだろうと思った。
太宰治の小説は風景画ではない。あくまで心象画だ。
そして、たいてい自画像でありながら私小説ではない。
太宰にはそれ以外になかったのだろう。
太宰は方法論的な小説家であり、太宰の諸小説はその七変化と濃淡なのだろう。
クリストファー・マーロウ『エドワード二世』
森新太郎演出。初台の新国立劇場の小劇場で鑑賞した。
二年前だったか、同じ劇場で観た
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』と同じ演出者。
確かに、舞台装置や、移動・戦闘の場面の立ち回りは、
抽象化されていて、類似を感じた。
もっとも、『ゴドーを待ちながら』は殺伐とした作品で原作そのままだったが、
『エドワード二世』は茶化したような演出だった。
だが、悲劇一般が主張するネガティブさではなく、
私欲にまみれて生きることへの肯定や慰撫があたたかく感じられた。
森鷗外『渋江抽斎』
青空文庫版。電子書籍は空き時間にすぐ手に取れるので読みやすい。
もっとも、註釈なしに読むのはなかなか難しかった。
小説ではないこの作品をどう考えればよいのかわからないが、
もしかすると、考える必要もないのかもしれない。
ルネ=マグリット『これはパイプではない』の解釈論のような、
分類の境界をつつく真似に陥りかねない。
この作品が楽しめるのは、小説ではなく歴史が小説のようであることと、
歴史が手近に見出だされて現在に連綿と続いていること、の両立からなるのではないか。
鷗外が古書に渋江抽斎の名を見出だしその人物を調べてゆく流れと、
鷗外によって語られる系譜とエピソードが、最後に交叉して繋がること、
その、小説と事実との隙間にこごった上澄みのような形式が、
私としては、面白かった。
もっとも、この視線はあくまで小説家というより歴史家のそれだ。
その端々に、しばしば小説の萌芽が見出だせるにすぎない。
この、小説(虚構)と歴史(事実)の合間を縫って織り上げたのが
後藤明生だ、そう考えている。
擬古文調で読みにくかった。
が、漢詩も作った漱石が書きたかった小説なのだろう。
漱石の中期以降の作品によく主題とされる三角関係が主題的に顔を出すが、
評論めいた文章も随所に散りばめられて、そちらも読ませる。
理論と物語が一致するクライマックスは、『草枕』を髣髴とさせた。
終盤はほぼ人生論だ。
「問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である」
だがむしろ、宗近君がロンドンから短く返す「ここでは喜劇ばかり流行る」は、
西欧と文明について沈思した漱石が、
近代日本に対して放ったもっとも鋭い警句だろう。
アントニオ・タブッキ『逆さまゲーム』
タブッキらしいトリックが「逆さま」に込められていて、
だが、それは仄かに感じるといった程度だった。
正直いって、それをあまり読み取れなかった。
それよりも、人の弱さのような余情が常に作品から漂ってきて、
その趣きにそっと耳を傾けるような小品が、なんとも心地よかった。
作品は20世紀初頭だが、『ペドロ・パラモ』の死者の問わず語りのような、
ある種の普遍性が、墓から語りかけるような文体だった。
夢野久作『少女地獄』
少女をめぐる三短篇の連作。
夢野久作の作品の例に漏れず、いずれも書簡形。
そのため回想的になり、よってしばしば時系列を無視して結論が仄めかされる。
これがおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
あとで粗筋を追えば感情なく思い返せるが、
自殺や迫る刃といったクライマックスをすぐ前にした緊迫した状態で語り始められ、
一人称で最後までずっと緊迫している、
その文体がもっとも読ませる。
太宰治 短篇集
ちくま日本文学シリーズの一。
「ロマネスク」のような初期作品から「桜桃」など晩年の作品まで収録し、
分量としては「女生徒」「カチカチ山」など精神安定期(?)が多い印象。
津島修治の小説はあまり読まずにきた。
しかし、いざまとめて読んでみると、惜しかったとも思う。
「新釈諸国噺」「お伽草紙」を読むと、太宰はやはり戯作派だと思う。
一方、「親友交歓」「桜桃」「ヴィヨンの妻」を読むと、
戯作派の類でありながら、同時に、
自他に絶えず浴びせた冷徹な視線を感じざるを得ない。
この両義性が、太宰治の魅力なんだろうと思った。
太宰治の小説は風景画ではない。あくまで心象画だ。
そして、たいてい自画像でありながら私小説ではない。
太宰にはそれ以外になかったのだろう。
太宰は方法論的な小説家であり、太宰の諸小説はその七変化と濃淡なのだろう。
クリストファー・マーロウ『エドワード二世』
森新太郎演出。初台の新国立劇場の小劇場で鑑賞した。
二年前だったか、同じ劇場で観た
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』と同じ演出者。
確かに、舞台装置や、移動・戦闘の場面の立ち回りは、
抽象化されていて、類似を感じた。
もっとも、『ゴドーを待ちながら』は殺伐とした作品で原作そのままだったが、
『エドワード二世』は茶化したような演出だった。
だが、悲劇一般が主張するネガティブさではなく、
私欲にまみれて生きることへの肯定や慰撫があたたかく感じられた。
森鷗外『渋江抽斎』
青空文庫版。電子書籍は空き時間にすぐ手に取れるので読みやすい。
もっとも、註釈なしに読むのはなかなか難しかった。
小説ではないこの作品をどう考えればよいのかわからないが、
もしかすると、考える必要もないのかもしれない。
ルネ=マグリット『これはパイプではない』の解釈論のような、
分類の境界をつつく真似に陥りかねない。
この作品が楽しめるのは、小説ではなく歴史が小説のようであることと、
歴史が手近に見出だされて現在に連綿と続いていること、の両立からなるのではないか。
鷗外が古書に渋江抽斎の名を見出だしその人物を調べてゆく流れと、
鷗外によって語られる系譜とエピソードが、最後に交叉して繋がること、
その、小説と事実との隙間にこごった上澄みのような形式が、
私としては、面白かった。
もっとも、この視線はあくまで小説家というより歴史家のそれだ。
その端々に、しばしば小説の萌芽が見出だせるにすぎない。
この、小説(虚構)と歴史(事実)の合間を縫って織り上げたのが
後藤明生だ、そう考えている。
15.9.13
『儀礼としての消費』『ドストエフスキーの創作の問題』『白夜』『エコー・メイカー』『緋文字』『建築家と小説家』『リヴァイアサン』『東京日記』『堕落論』『二百十日』
読後、半年ほど放置していた本もある。
積まれたままだったので、元に戻しつつ一冊ずつ振り返る。──
○メアリー・ダグラス/バロン・イシャウッド『儀礼としての消費 財と消費の経済人類学』
浅田彰、佐和隆光の共訳。
経済人類学なので、経済活動を人類学的に社会外から見つめる。
その意味で、非常に興味深く、おもしろかった。
その視点はまず、「財」を、「合理的な種々のカテゴリーの、多少とも費用がかかり多少とも一時的な標識として扱」う(p.20)。「所有権のもとにひとまとめにされた財は、選択者が同調している価値のヒエラルキーについて、物理的に目に見える形で物語っている」と。社会においては、財は衣食住のためにあるのではなく、非言語的なコミュニケーションツールである。
また、消費は「商取引も強制力も自由な人間関係に干渉しえないことを明示する規則によって守られた、一定の行動領域」(p.93)と定義される。だからこそ、現金と贈り物が区別され、人類学がミクロ経済学を包含する。
こうして、財と消費は、財界・政界をミクロレベルで規定するコミュニケーションツールとなる。人ごとの周期的な消費習慣によって、社会階層を区分する行動領域の格差となる。
○ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』
平凡社ライブラリー刊。
『ドストエフスキーの詩学』としてカーニヴァル論を追加する前の、
バフチンのドストエフスキー論の核心をなすポリフォニー論が主題。
ドストエフスキーにおいてはあらゆる登場人物が精神分裂的であり、
他者化された自己との対話によって、語りが進行してゆく、とする。
あらゆる言葉が他者を横目に意識して、びくびくして緊張している。
冒険小説のように、人は明確なアイデンティティを持たずに物語を回遊する。
「その人は何者か」という問いは、ここでは意味をなさない。
また、言葉の内容と言語行為の差異や、物語枠外の大衆の声の導入など、
複雑に搦みあったポリフォニー構造の響きあいとして、
ドストエフスキーの諸作品が分析される。
この分析にも、この分析で解明されるドストエフスキーの作品構造にも、
ともに嘆息せざるをえない。
○ドストエフスキー『白夜』
短篇で、ドストエフスキーらしからぬ可憐な物語。
ただ、淡い恋のような小品の主題も、
ドストエフスキーにかかればこの言葉うるさい文体になる、という一例か。
上述のポリフォニーの萌芽らしい語りの緊張感が、きちんとある。
○リチャード・パワーズ『エコー・メイカー』
トラック事故でカプグラ症候群に罹った弟とその姉をめぐって、
じっくりと物語が進む。
筋がなかなか進行しないまま、脇へ脹らんでゆく印象の長篇だった。
だが、その脇の語りは現代アメリカの歪みを描写している。
教育、雇傭、家計、産業、自然保護。そのすべてにおいて、
変と不変の板挟みでもがき苦しむ姉が語り手だ。
舞台は代わり映えのしない小都市で、
姉弟はアメリカ・キリスト教の保守的な家族に育った。
しかし姉は、そこから変わろう飛び立とうと、もがき苦しむ。
その中で、変わるものと変わらないものの岐路として
厖大な描写を捧げられているのが、街の名物でもある鶴だ。
鶴は「エコー・メイカー」として、
散りばめられた主題をニューロンのように結びつける。
○ナザニエル・ホーソーン『緋文字』
光文社古典新訳文庫版。
アメリカという国がニューイングランドとして、
清教徒色の濃い崇高な思想とともによちよち歩きを始めた時代の、
その異様な村社会が、面白かった。
ストーリーではなく文章に読まされている感じがあったが。
マサチューセッツ州セイラムという古い港町で始まる序章は、
小説が過去をたぐって引き寄せられた史実である、とする枠構造だが、
その枠の内外の緊張感の差もまた、
時代の差として主人公が懐かしんでいる感じがよく含まれていた。
○若山滋『建築家と小説家 近代文学の住まい』
著者はプロフェッサーアーキテクト。
建築史と文学史を搦めて概説しつつ、近代文学における建築が語られる。
住居構造から読み解く文藝評論は鋭い。
篠原一男という建築家に興味を持った。
伝統的な住居形式を現代に接ぎ木するのではなく、
伝統を援用しつつ現代における空間美を追求した、らしい。
建築が小説において意味をなした時代は、
もしかすると終わったのかもしれない。
例えば、綿矢りさ『蹴りたい背中』では蜷川の別居状態が語られるが、
それは古井由吉『円陣を組む女たち』が奇怪らしく描く団地の相互孤立の
一つの最終形態というにすぎないように思われる。
村上龍が若者を描くときの個室宇宙、絆なき人間模様を描く柳美里、
そんな時代に建築は打つ手もないのかもしれない。
○ポール・オースター『リヴァイアサン』
中身は措いて、ポール・オースターと谷崎潤一郎は似ていると思う。
始点と終点と、いくつかの中継点がまず設置されたのち、
その接続において、ある種の即興性を感じる。
オースターの代表作はそれが美しくリンクされているが、
『リヴァイアサン』はところどころ時系列を逆転したり、
あとで種明かしをたっぷり用意したりと、ある程度荒削りに読めた。
それはむしろ生成論的に面白かった。
○内田百閒『東京日記』
内田百閒の小説はサルヴァドール・ダリの絵のようだ。
克明だが摑みどころがない。
まあ、日記帳の奇譚集だからなのかもしれないが。
抑揚を欠き、描写ごとの指向性が弱い、
この文体が好きな人は、いるのだろうが。
○坂口安吾『堕落論』
大学時代、研究室の二つ上の先輩に買ってもらった新潮文庫版。
表題作のほかにも重要な評論が収められている。
安吾は戦後体制でかなり珍重された作家だったというが、それはよくわかる。
また、同義において、現代もっとも読み返されるべき作家だろう。
安吾は根源的なまでに、既存を問うことができる。
それでいて浮き足立っておらず、現実からスタートしている。
安吾が説く「堕落」を怠ったからこそ、
現代日本は右翼が歴史なき妄想的な主張を声高に叫ぶし、
ビジョンなき閉塞感がそこここに漂っている。
そんな気がしてならないまま、機上で読み終えた。
初期の短篇らしく、二項対立を軸にした作り。
圭さんは行動的、屈強で、
せっかく阿蘇に来たのだから噴火口を見に行きたい。
実家が豆腐屋で、身分社会を憎み、貴族や金持ちが嫌い。
一方、碌さんはあまり自らを語らず、聞き役に徹する。
自分のペースで進みたいのに、
とうとう腰を痛め足を豆ばかりにしても、
最後は圭さんに圧倒されて諦めるように再度の山登りを諾する。
圭さんよりも碌さんの思考のほうが、語られず動かされる身なだけ、興味深い。
元になったとされる実体験を漱石が経験したのち、
この二項対立が、一つの含意を暗に仄めかしているから、
作品としてのこされたのだろう。
そう考えると、圭さんは西洋的、碌さんは東洋的だ。
圭さんが言動で示され、碌さんは態度で示される。
ならば、この短篇から感じる二項対立はむしろ、
非対称的なアンバランスだ。
「現代日本の開化」で漱石がいう光速の欧化が、
圭さんのせっかちさに現れている気がする。
また終盤、圭さんが貴族・金持ちを批判する強引さが、
圭さん自身の登山に邁進する姿と重なる。
この奇妙な矛盾が、当時の世情にあったのだろうか。
「二百十日」という立春から数える台風の季節の呼称も、
明治維新後の明治何年というような行く末を、なんとなく感じさせる。
14.3.13
『魯山人の食卓』『終の信託』『アズールとアスマール』『サラの鍵』『郵便配達の学校』『鳥』『麦秋』『滝の白糸』『ポリグラフ 嘘発見器』『彼岸過迄』『行人』『レ・コスミコミケ』
忙しさは、言い訳にすぎない。時間は作るべきものだ。
しかし、限度もある。その葛藤にいたが、今は和らいだ。
ここにメモしておく時間さえなかったが、うちやっておけば必ず忘れる。
今でも順序などははなはだ怪しい。
○山田和『魯山人の食卓』
平凡社新書。
北大路魯山人の食への追及とその思想が、献立とともにいくつも紹介されている。
献立は見どころだし、参考にもなる。
書に始まり、美食、陶芸と生涯に貫いた思想は、言ってしまえば単純明快だ。
旨さ、がそれだ。ただ、魯山人の場合、そこに食らいついても話さない執念がある。
それは、『神的批評』で垣間見た精神のとおりだ。
加えて、本書で見出だした魯山人の姿が、もう一つある。勘と試行錯誤だ。
醤油の使い方の手ほどき一つみても、魯山人の智識の深さに驚かされる。
相反していながら両輪をなすのが、既存に囚われない勘のよさだ。
刺身の盛りつけにしても、ジャンルを超えた焼き物の独自性にしても、
そこには魯山人の他にありえない唯一の軸が、太く通っている。
魯山人の亡きあと、魯山人の流派はありえないということにもなる。
それは種田山頭火であり、ジョブズであり、柳田國男と同じ系譜にある。
その人の改良型というものが存在しない独自性と一回性がある。
○周防正行『終の信託』
周防正行は『それでもボクはやってない』で、裁判のストーリー性に目覚めたか。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の終盤も、西川美和『ゆれる』もそうだった。
展開を小出しにできるし、その鬩ぎあいがなにより見応えになる。
自分が面白く見たのは、検事による話の持っていき方だ。
事実がどうかはわからないが、ありそうな歪め方だと思った。
○ミッシェル・オスロ『アズールとアスマール』
原題は « Azur et Asmar »。
azurはフランス語で青、أسمرはアラビア語で褐色。
主人公二人の眼の色を意味する。
ファンタジー調ながら偏見とへつらい、価値観の転倒が容赦なく描かれる。
それは見ていてわかりやすいだけに、大人のほうが身につまされるほどだ。
○ジル・パケ=ブランネール『サラの鍵』
原題は « Elle s'appelait Sarah »で、英題が "Sarah's Key"。
第二次大戦時、親ナチス政権下にあったフランスでのユダヤ人迫害の話。
現在が歴史を遡行する進行は、例えば中島京子『小さなおうち』に似ている。
進行が当時と現在を入り混ぜていて、その風景の落差が否応なく目につく。
しかも現在はパリ、ニューヨーク、フィレンツェと舞台が飛び回る
(米英に加えてイタリアが入るのは、連合国と枢軸国の対照ではないか)。
国境を越える容易さが逆に、そうはいかなかった過去を振り返らせる視座になっている。
○ジャック・タチ『郵便配達の学校』
無声映画の喜劇短篇。
コミカルな動きもさることながら、
スピード感のある動作が次々に繋がってゆく爽快感がある。
○アルフレッド・ヒッチコック『鳥』
この映画がいいのは、
鳥が人間を襲う理由が最後までわからないこと、
そして救いがわずかも提示されないこと。
ハリウッドで活躍しながらハリウッドらしくないということだ。
こういった、反現実が現実を脅かす作品は、
細部が細やかであればあるだけいいのか、と思った。
○『麦秋』『滝の白糸』
南座で鑑賞。
○ロベール・ルパージュ『ポリグラフ 嘘発見器』
演出・吹越満、翻訳・松岡和子(!?)。一月下旬に梅田藝術劇場で鑑賞。
原題は « Le Polygraphe » で、ケベックを舞台にしている。
舞台ならではの技巧がふんだんに盛り込まれていて、面白かった。
影と光を人の動きにフィットさせたり、
カメラとスクリーンを使用して観客の視点に二つ目を用意したり
(庵野秀明『ラブ&ポップ』のカメラワークを思い出した)、
あまり舞台を見ない自分としては新鮮だった。
○夏目漱石『彼岸過迄』
連作が一作にまとまっているという形態が、まず序文で明かされる。
敬太郎を狂言回しに、須永と千代子の宿命的なすれ違いが描かれる。
ハムレットのようにうじうじと何もできない須永の悶々とした苦悩が、
場面や舞台を投影するたびに浮かび上がって過ぎてゆく。
そう、物語が展開するたびに心が主題を映じる、
この感覚が漱石の中後期には濃密だと思う。
エピソードが豊富でありながらあまり残らず、
それらに投影され尽くした気概や気質のようなものが、深く読後感に残る。
○夏目漱石『行人』
この小説の中で、漱石の主題が中期から後期へと転じているように思った。
終盤、兄とHとの旅行の物語が、一気に主題を存在論的な位相に引き上げている。
むしろ、それまでの語りが、この主題の周囲に散りばめられた伏線の集合体だったようにさえ思った。
だが、新聞小説として順行して書かれた経緯は、そうではないらしい。
主題の転換を経て、終盤があったものだという。
一方で、中期の問題がより深く掘り下げられているように思った。
それは、人間(じんかん)のしがらみ、意志の割り切り方、のような問題だ。
○イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』
『見えない都市』のようなアンソロジーでありながら、
さらにスケールは大きく、宇宙・地球の歴史に材を取る。
宇宙の原始から存在する(なぜか、と訊いてはならない)Qfwfqが、
星雲のできるときのエピソードや、
魚類から両生類が分かれるさなかの青春期、
恐竜の絶滅した後の最後の恐竜の身分を隠して哺乳類と暮らす葛藤など、
懐かしげに大いに語る。
銀河の一点にしるしをつける話や、
星々の間で何億光年という時間をまたいでプラカードを見せあう交信の話は、
あり得ない設定が馬脚を見せる前に足早に語り去ってしまう言葉の魔力を、
まざまざと見せつけられた。
それは、『見えない都市』の静止観ではなく、『不在の騎士』の堂々たる語りだ。
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