21.7.14

『見仏記 ぶらり旅篇』『八つの人生の物語』『私たちがすすんで監視し、監視される、この世界について』『現代思想 特集:大阪』『政治的なものの概念』『夏の夜の夢 あらし』『地図と領土』

 みうらじゅん/いとうせいこう『見仏記 ぶらり旅篇』

奈良、京都、愛知のあちこちの寺院を巡って仏像を鑑賞する、
エッセイなのか紀行なのか。みうらじゅんのイラストがリアル。
とても深い知識と含蓄があるからこそ、
語りが柔らかくて奔放な捉え方でべらべら話せるのだろう。
仏像鑑賞の入門書にしては内容は上級だが、取っつきやすい。
それに、読み物として面白いし、恰好の解説書にもなる。


 アーサー・クラインマン『八つの人生の物語』

副題に「不確かで危険に満ちた時代を道徳的に生きるということ」。
原題は "What Really Matters : Living a Moral Life Amidst Uncertainly and Danger"。
皆藤章・監訳、高橋洋・訳。

本を手に取るきっかけは、京都大学教育学研究科の主催の講演だった。
氏は、現代において病いは生理学的な異状ではなく隔離の理由づけであり、
社会が受け容れられなくなっている多様性へのレッテルと化していて、
製薬業界の市場となりつつある、と主張していた。

病い、あるいは苦しみ、そしてそれを背負って語るということは、
一つの防衛規制であるはずなのに、病いとされ治療対象とされる、
そんな社会が正常なのか、と訴えていた。
隣人の死は人を深い悲しみに沈め、震災は人を茫然自失に陥れる、
それは治療対象ではなく、受け容れようともがく正常な心の作用だ、と。
そして、医療は物理的・生理学的に異状を除去するのではなく、
その心に寄り添わなければならない、と主張していた。

病いは社会的なものであり、
個人やその人生は社会によって変わるし、逆に社会を変える。
要はそういうことで、その一貫性と毅然とした価値感にこそ希望がある、
そう著者は言っている。
医業とは疾病の治療術であるのみならず、患者に耳を傾け、寄り添うべきだ、
患者はベルトコンベアーの上を流れるだけの存在では決してない、と。

医療が高齢者へのケアへシフトしつつある現在、
医学のあり方を問い直し、そして、
延命至上主義から脱して人倫的に組み立て直すことは必須だろう。
もっとも、現在の介護や高齢者医療の現状をちらと一瞥するだけで、
そうした問題に気づいてさえいない寂しい現実がありありと透ける。


 ジクムント・バウマン/デイヴィッド・ライアン
 『私たちがすすんで監視し、監視される、この世界について
   リキッド・サーベイランスをめぐる7章』

原題は"Liquid Surveillance : A Conversation"。
人が常にインターネットに繋がれ、SNSで監視しあう世の中について、
メールを介した対談の形式を採る。

「パノプティコンの悪夢」が「見捨てられたくない」願望に変えられたことが、
暴露の不安を気づかれる喜びによって抑制されている、という。

ディストピアについて。
オーウェル、ザミャーチンなどと並んでウエルベックが挙げられている。
古典的なディストピアは管理社会であり、Big Brotherがどこかにいる。
しかし、ウエルベックにおけるディストピアは、どこにも管理者がいないまま、
どうにもならない社会が気まぐれな時代々々によって流されてゆく不安だ、と。
この指摘を読んで、この社会への漠然とした不満が言い表されている心地がした。


 『現代思想 2012年5月号 特集:大阪』

ざっと内容は以下のとおり。
市営モンロー主義を生んだほどの官製都市大阪の戦前期、
戦後の東京一極集中と地盤沈下、
フェスティバルゲートや舞洲といった都市計画の相次ぐ失敗、
それから橋下前知事・現市長の強権的な自治の否定。

大阪はこれらすべての意味で、
非・東京、非・首都圏としての“地方”の先陣を切っている。
もっとも、東京と“地方”の関係は二元的ではなくフラクタル的だし、
大阪という一ケースは大阪にしか当てはまらない。
ただ、名古屋市や武雄市のような似た都市もあるし、
その意味で、何らかの一般性を見出だせる気もして、面白かった。


 カール・シュミット『政治的なものの概念』

田中浩/原田武雄・訳。未来社。
原題は » Der Begriff des Politischen «。
政治的であるということの概念、とすべきか。
また、友・敵理論という翻訳は、
敵・味方理論のほうが分かりやすくはないか。

倫理の判断基準は善悪、経済では損得。
政治の判断基準は敵か味方か、という理論。
経済的価値判断に重きを置く自由主義への批判として、
結局は経済においても政治的な決議や拘束は
敵か味方かの価値判断に収斂するとして、シュミットは国際連盟を批判する。
事実、国際連盟は破綻したし、
国際連合は敵・味方の価値判断で思考停止して
たいてい身動きが取れないでいる。

以下、興味深かった箇所のメモ(シュミットの謂い):

敵は戦敵(ポレミオス)であり、私仇(エヒトロス)ではない。
「なんじの敵を愛せ」は私仇であり、
例えばイスラム教徒はキリスト教徒にとってあくまで単に戦敵だった。(p.19)

国家の全能と神は、世俗的か神学的かという表層的な違いでしかない。
最高の権力を保持して、人に死を覚悟させるほどの強権を発動できるという意味で、
国家は神と同等に立ち現れる。(p.42)

あらゆる政治理論は、性善説と性悪説のどちらに基づくかで分類できる。
政治が矯正の権力である以上、真の政治理論は後者である。(p.70)


 シェークスピア『夏の夜の夢 あらし』

新潮文庫版。福田恒存・訳。
実は未読だったので、観劇の感動の覚めやらぬうちに手に取った。

「夏の夜の夢」はパックが最後に観客に謝辞を贈るし、
「あらし」はプロスペローが物語を語り始めるところで幕切れだ
(「ハムレット」も同様)。
つまり、二作品とも、劇が観客席へなだれ込んでくるような装置がある。
シェークスピアは劇ということ、現実世界の劇性、について、
(理論的にではなく人生観的に)どう考えていたのか、気になる。


 ミシェル・ウエルベック『地図と領土』

原題は« La Carte et le Territoire »。

地図については、作品上で主人公の芸術家ジェドが
ミシュラン社製地図の写真作品を作るが、
領土とはなんだろうか。
おそらく、地図と領土の対比は、
空間的な拡がりについての具体物と概念、ということではないだろうか。
カードとテリトリー。

もちろん、そうではないのかもしれない。
作品の主題は多重的だ。藝術と経済、自己認識と評価、業界にいることと孤独。
引用を搦めたやや饒舌な文体は、リチャード・パワーズを思わせた。
面白い小説だった。

(以下、2015.3.2に追記)
舞台のパリは、夏目漱石『こころ』の先生の彷徨する東京のような
こころの揺れを象徴するものではなくて、
数字の区名と通り名を列記された、あくまで客観的で明白な座標軸として描かれている。
警視の初任給の約2,898ユーロや、随所に現れる実在の雑誌や商標名、
社会主義や美術評論についての交わされる議論もまた、
決定的に情緒を欠く(それぞれ興味深くはあるが)。
この固有名や数値の多用は、さらりと読める伝記のような文体を特徴づけていて、
それでいて、逆説的に一つの現代的な感受性なのかもしれない。
でも、ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』『ムッシュー』みたいな、
直截さを一つの諧謔とするような文体というわけではない。
ウエルベック本人ほか種々の実在の人物がスターシステムさながらに登場し、
そのきらびやかな風景があっさりと消えるように
ウエルベックが殺される後半が黙々と語られる、
この世間の冷たさみたいなものが、この文体と物語の流れから感じられる。
そして、主人公の画家の成功した人生を、
いやにそっけなく取るに足らないみたいものに感じさせる。
ましてや、主人公の制作する美術作品の価格は変動し、
格安航空会社ライアンエアーのチケット代は驚くべき安さにまで下落したりする。
自らの存在意義さえも賭けた商業主義に飲み込まれて、
やがてはみな老いていなくなる、
そして、画家のいないところで社会は画家を評価し、作意や思想まで評する。
描写は主人公を追っているのに主人公がどこにもいないみたいな、
そんな商業主義の冷たさに文学を染め上げたような、
不思議な無常観を催させる作品だった。


「ハムレット」「ワーニャ伯父さん」「友達」

KUNIO11「ハムレット」

杉原邦生・演出。京都芸術センターにて。
舞台は観客席側へ下る坂になっていて、装置はない。
舞台上で光る“THEATER”の電光は、
どういう狙いなのかよくわからなかった。
劇中劇であるということなのか、あるいは、
ハムレットの心境が多重で虚実入り混じっているということなのか?

ブザー音の多用がきびきびと舞台展開を動かすなかで、
ハムレットの苦悩とその言動はじっくりとこなされ読み飛ばされたりしない。
その作品への忠実さは好感が持てた。
逆に、周囲は平べったく映っているような感じを何度か抱いた。

森田真和の演技が素晴らしかった。


地点「ワーニャ伯父さん」

三浦基・演出。アンダースローにて。

原作をトポロジカルに組み換えたような演出。そんな印象を得た。
台詞と登場人物は保たれたまま、その配置はすでにアンチ=テアトル的だ。

舞台は、雑草の生えたグランドピアノと椅子と
地面に刺さったまま抜けない傘、そして扉があるだけ。
役者は開演前から位置についていて、思い思いに、
きょろきょろしたり、左回りに歩き続けたり。
そして、公演中、役者はほとんど舞台から消えない。
ワーニャ伯父さんとソーニャに至っては、グランドピアノから降りさえしない。
この閉塞感。

言葉の起伏が感情と結びついていない、機械っぽい台詞が繰り延べられて、
ストーリーは進んでゆく。
とはいえ、ワーニャ伯父さんとソーニャが取り残されるというだけの、
帝政ロシア期の貧農らしい、涙も枯れた悲しい現実があらわになるだけの物語だ。
それが明かされる終盤、この閉塞感と無感情な台詞とが、
渇いたため息を吐くほかない現実感と相俟って、
うんざりするような哀しい無感動として襲いかかる。
圧倒された。


sunday「友達」

ウォーリー木下・演出。伊丹AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)にて。
原作は安部公房。ストーリーは『砂の女』とびっくりするくらい似ていた。

序盤の、突然住み着いた家族と主人公とのやりとりが長く、
以降の進行がいきなりスピードアップしているような感じだった。
しばしば差し挟まれる躍りが序盤に集中していて、
それもやや退屈だった。
あと、主人公はうんざりしたような退屈げな声色のまま強ばっていたことが、
あまりいただけなかった。
徐々に状況に慣れさせられている感を表すためにも、
その異常時っぽい声は抜けていったほうがよかったのではないか。
陰の使い方は面白い趣向で、もっと洗練されれば効果的だと思う。

「現代演劇レトロスペクティヴ 日本の名作#2」ということで、
どんな作品がどれだけ続くのか楽しみ。
なお、次作は別役実。


29.6.14

「夏の夜の夢」「テネシー・ウィリアムズ短篇集Vol.1」「子供の時間」

まめ芝。SPECIAL「夏の夜の夢」

6月28日(土)14:00、江古田ONE'S STUDIOにて。
原作の妖精ささめくドタバタ感が、
とても楽しげに演出されていて、観ていて楽しめた。
それが、縁と地位に縛られてしゃちほこばった人間の喜劇と混じりあう。
どちらが劇中劇なのかわからないようなストーリー進行は、
妖精たちが実際に観客席に座って茶々を入れながら観る、
というシーンによって、象徴的だった。
昼と夜、人間と妖精、都市と森、事実と揶揄いが、
どちらがどちらともつかずに本当と嘘、真実と劇と混じりあう、
シェークスピアらしさの神髄のようなものは、
やはり劇という藝術形式に乗ってこそなのだろう、と再認識した。
そして、小田島雄志の名訳は今なおすばらしい。

音楽と音が積極的に取り入れられていて、面白かった。
最初のダンスに始まり、パックの足首の鈴、濃いに落ちる瞬間の笛、など。

演じる一つの身体がそのすべてを受け持つ、
だから舞台と席は接していて遠い。
その身体性のような神秘的な何かを、特に伊織夏生氏から感じた。


深寅芥ワークショップ「テネシー・ウィリアムズ短篇集Vol.1」

6月28日(土)17:00、池袋スタジオネリムにて。
「踏みにじられたペチュニア事件」「バーサよりよろしく」の小品の二本立て。
日常のある象徴的な一シーンを切り取り、
それが一つの現代的な問いを投げかけている、
そういうところがテネシー・ウィリアムズの作品だとすると、
それが演じられるということが、どこまで日常的であり非日常的なのか。
(このとき、主題的には非日常的ということはたいてい偏執狂的なのかもしれないが)
そして、どの程度くたびれていて、どの程度おめかししているのか。
つまり、どの程度われわれの日常を写し取り、どの程度そこからずらすか。
それがこれらの作品を演出する難しさなのだろう、と思った。


スターダス・21カンパニー vol.20「子供の時間」

6月29日(日)15:00、阿佐ヶ谷アルシェにて。
原作はリリアン・ヘルマン作、小田島雄志訳。

第二幕から第三幕の移り変わりのときの、
カレンとマーサが有罪になる前後の場面展開が、とても秀逸だった。
舞台背景として配置された黒板の絵を
生徒の二人ほどが無邪気そうに消して回り、
最後に学校名に黒板消しで×をつける。
カレンとマーサが立ち尽くして、
信じられないといった顔で見ている。
生徒は出てゆき、閉められたドアには大きくGUILTYと書かれている。
演劇がこういった象徴的・反即自的な演出を舞台上に出現させるのは、
なかなか珍しいのではないか。
寡聞にして本作品の演出の一般事例を知らないが、
とにかく心に残った。

言葉がその意味から外れてゆき、
軋みを立てて毀れてゆく。
カレンが虚ろな目で呟くように、これが作品の主題だ。
言葉や信頼が事物そのものに太刀打ちできない。
言葉不信による疑心暗鬼の連鎖が情況を毀し、さらに関係の修復を妨げる。
子供は自分の当座の幸せこそを追求し、
言葉はその目的に従属している。メアリーはその極致だ。
責任、有罪、生きがい、そういった言葉(=概念)を重視する大人とは違う、
子供の法体系外の独自のルールがある。
これが、子供の時間、ということなのだろう。

素晴らしかった。
ただ、出だしの授業中の場面は騒然として、
序盤らしい登場人物紹介機能もあまり強くなかった。
ジョーはあまりに迷いのない善者で、
もっと苦悩や戸惑いがあってもよかったように思う。

25.5.14

『予告された殺人の記録』『七人の使者 神を見た犬』『まぼろし』『ゴランノスポン』『一揆の原理』『雪』『「心の闇」と動機の語彙』『崩れゆく絆』『幻想紀行』

○ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』

状況の多層性をそのままに写し取り、
かつ、語りとして口語に近く、一気に読ませる。
さまざまな登場人物に取材し、主張を結びつけ、
モザイクのように舞台を作り上げてゆく。
こういう文体が物語を構成するとき、
書き手の視点は一登場人物でしかなく、時系列は交錯する。
これぞ新しい文学だというほかない。


○ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者 神を見た犬』

15の短篇。
ブッツァーティの描く舞台や主題は、だだっ広くて何もない空間や、
何かが起きていてその意味がわからない、といった、空虚な実体だ。
カフカや安部公房のようでいて、
しかし、状況を描くことに、より専念しているように読める。

病棟での立場と病状の搦む「七階」や、
階段を上がり下がりする「水滴」は、まるでカフカの短篇だ。
一方、「七人の使者」や
「なにかが起こった」はモーパッサン『オルラ』を思わせる。


○フランソワ・オゾン『まぼろし』

原題は « Sous le sable »。
sable(砂)のイメージが、
作中の特に後半に描かれる荒々しくも生の源泉のような海と対比される。
砂は脆く弱く崩れ、海は暴力的に強くすべてを吞む。

喪失を受け容れようとするとき、
強いはずの大人がとても脆い振る舞いをする。
夫を失くしてから周囲との間というものが崩れてゆく、
糸の切れたような心の動きが、哀れで物悲しく、よかった。
終盤の海の映像が印象的だった。


○町田康『ゴランノスポン』

「ゴランノスポン」は、
仲間や感謝や夢という言葉を妄信的に好む頭の悪い地元志向高卒のような、
薄っぺらい日常が、薄っぺらいまま真空保存されたような短篇。
「二倍」はわけのわからないベンチャー企業で空虚に稼ぐ幻を砕く。
「尻の泉」は自分だけが特別だということをひた隠しにして
最後に自らの平凡さに気づく。
どちらも、町田康『夫婦茶碗』らしい、
自らの市場価値と自己認識の落差にあえぐ短篇。


○呉座勇一『一揆の原理 日本中世の一揆から原題のSNSまで』

一揆、あるいは一味同心とは、クーデターではなく、
仲間であることを契約で再確認する行為だ、と本著は再定義する。

現世利益のために一揆し行為を起こすため、
寺一揆であっても本地垂迹による神を拠り所とする、
という佐藤弘夫の説が紹介されていて、面白かった。


○オルハン・パムク『雪』

原題の「雪」とは、トルコ語で"Kar"なのだそうだ。
舞台はトルコ東部のKars(カルス)、主人公はKa。

脈々と続くナショナルな思想としてのイスラムと、
反近代化としてケマル・アタチュルクが掲げた脱イスラム思想が、
ヨーロッパとトルコの思想的な対立として、作品の軸になる。
アジア・アフリカのどの国にとっても、西洋と自国の対立は思想的な主題だろう。
それは、中央と周縁の二項対立である以上に、
近代化という確固たる歴史を引き裂いて考えなければならない問題だからだ。
日本もトルコも近代化において類似する系譜を辿った。

幸せになろうともがくKaの立ち位置が、
軍事クーデターと思想=政治的対立によって、重層的に阻まれる。
Kaは個人として幸福になりたい。
その考え方がイスラム過激派の“紺青”のみならずカルスの市民にあわない。
Kaはドイツでハンス・ハンセンの自宅に招かれた妄想を回想して、こう語る。
いいや、ひどく真面目な雰囲気があった。このことは言わねばならない。皆幸せだった。しかしこの国の人たちのようにやたらに、二言目には笑わなかった。とても真面目だった。もしかしたら、そのせいで幸せだったのかもしれない。人生とは、彼らにとって、責任ある、まじめなことだった。この国でのように、めくらめっぽうな努力や苦しい試練ではない。しかしこの真面目さは、生き生きしていて、ポジティフなものだった。カーテンの柄の熊や魚のように色とりどりでそれぞれ幸せだった」(p.306)
いかにして個人が幸せに生きるか。
Kaはトルコと亡命先ドイツに引き裂かれている。

物語の文体として、Kaは狂言回しに徹する。
Kaはすべての立場と登場人物と接触し、Kaの行く先々で事件が起き、
Kaの軌跡が物語の進行と一致する。
長篇として、時系列のたゆみやカットがなく、リニアな印象を受けた。


○鈴木智之『「心の闇」と動機の語彙 犯罪報道の一九九〇年代』

酒鬼薔薇聖斗事件として知られる神戸連続児童殺傷事件における、
「心の闇」言説についての研究。以下、メモ。

「心の闇」という言葉は報道において、1997年に急速に拡大し、2000年代においてはすでに定着した。神戸連続児童殺傷事件(1997年)、西鉄高速バスジャック事件(2000年)など少年犯罪の低年齢化がまず要因として挙がる。さらには、「ゆとり教育」の導入のような、教育の量から質への転換など、心の教育が重視されていたことも背景とされる。

「心の闇」が解き明かされるべきものとして言及されながらも、理解しえないものとして結論づけられる、このダブルバインド効果が、パラノイアックな状況を作り出す装置となっている。

1997年8月5日、神戸地裁は少年Aの精神鑑定を決定。しかし、精神鑑定は「心の闇」を少年A固有という判断を下さなかった。当時の報道は「少年Aは事件を起こす特異な暴力性を有していた」というストーリーに組み込むことを望みながらも、「少年はみな同様の暴力性を内在している」という相反する言説をも引く。

考えたこと。
1997〜2000年の少年犯罪は、
「人を殺してみたかった」だとか、「キレる」といった、
理解不能な犯行動機の嚆矢だった。
社会は「心の闇」言説を導入することで、
もやもやを感じながらも思考停止したのだろう。
やがて、思考停止は精神病の公汎化(アスペルガー、ADHDなど)に回収される。
社会が自らの病理を考えなくなり、個人への病名附与で擬似解決を図る、
そうしたパラノイアックな時代の先駆けが、
日本では1997年だったのではないか。


○チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

光文社古典新訳文庫版。栗飯原文子訳。原題は"Things Fall Apart"。
ナイジェリアのイボ族の生活が描かれ、
キリスト教とイギリスの支配に崩されるまでが描かれる。
イボ族の習俗が厳しそうで、自分には合わないな、と思った。


○塚本邦雄『幻想紀行 ──地図を歩く──』

塚本邦雄らしく、すべて旧字旧仮名遣ひ。
自分も地図をずつと見ていて飽きない質なので、
その妄想を逞しくさせてくれる恰好の手助けとなる本だつた。