20.8.17

『ゾルゲの見た日本』、稲垣えみ子『魂の退社』

みすず書房編集部・編『ゾルゲの見た日本』

リヒャルト・ゾルゲが1935年から1939年の間、
ドイツの雑誌に発表した6本の日本研究論文。
ソ連スパイではあれナチス政権からも識者とされており、
本名で執筆された論文だ。
拘留中の文章にも、時代が違えば学者になっていただろうとあるし、
優れた観察眼ははっきり読み取れる。
内部は外部の視座によってこそ客観的に把握でき、
簡明な文章によって的確に伝達される。
国内の報道で世界(ときに国内)情勢が正しく把握できない昨今と同じだ。
なお、訳者は、あとがきによれば不詳。
概ね東京外国語大の生駒佳年教授ではないかと推察されている。

日本がソ連と開戦する可能性を調べる任務を帯びていた"ラムゼイ"の文章だから、
国力が日本にソ連開戦を許すかどうか、それを徹底的に分析している。
輸出入と国際決済が国家総動員体制によって厳しく制限されるにせよ
多くをアメリカに依存している現状への厳しい指摘は、
その直後の日米開戦が無策どころか無脳だったと帰結せざるを得ない。
日本の工業が農村から税制的、人件費的に搾取するうえで成り立っていること、
財界・地主階級による政党政治が、農村出身者の占める軍部にとって皇国の堕落と感じ、
よって二・二六事件がある種の時代の必然と捉えられていたということ、
このあたりは、時代というものがいかに制度的な妥協の産物であるかを感じさせる。
そして、時代や風潮の転げてゆく流れに対して、
ヒーローが都合よく現れて立ち向かうことなどないのだ、と。
附録の暗号文は、現代からみれば歴史である振り返りを、
刻一刻と動く情勢として蘇らせてくれる。

「日本の政治指導」というわずか6ページの論文は、
1939年に書かれたものだが、そのような制度論を冷徹に裏づける。
その論文は簡潔に、次のことを述べる。
  • 国会は審議機関の権能をほぼ有しない。
  • 天皇ありきの国家観は国民さえも規定せず、絶対君主制というより全体的君主制である。
  • 国家元首かつ国家神道最高神たる天皇は超越的であり、政治は、内閣、軍部、枢密院という3者が受任する。
そして、次のような結論づけが、いかに日本的かと唸らざるを得なかった。
日本の「全体的君主制」の「受任制度」は、民主主義的でもなければ全体主義的でもない。それが、いろいろの「受任機関」相互の力関係のいかんによって、政治活動の上では、ある程度民主主義的または全体主義的な特徴をおびることがあるとしても、それは決して二つの統治制度の間の妥協でもなければ綜合でもない。それは実際のところ、独特な日本的作品である。(146ページ。原文は「独特な日本的作品」に傍点)

稲垣えみ子『魂の退社  会社を辞めるということ。』

50歳での退社に至るまでの心境の変化と、
退社後の脱力した暮らしとを語ったエッセイ。
退社に至るまでについて正直な感想としては、
省みればそうなのだろうが、
実際の心境の機微とすればそれほど整ったものではないのだろう、
と、読んでいて感じた。

もっとも、カネとキャリアという会社が縛る二つの鎖と、
どうやって折り合いをつけてゆくか、とも読めるので、
会社に社会性を収奪され尽くした大多数の労務者が
定年後に行き場を失うことへの処方箋のような体験談だ。
そのために、社外の関係を築いておくこと。
それが挙げられていた。
「つながり」。昨今の定石だ。が、大切だとは思う。

前に読んだ『寂しい生活』と同じく、
老いを前にどう生活を畳んでゆくか、という主題もあって、
むしろ、会社ありきでしか社会保障が成り立っていない現在、
早期リタイアがいかに不経済かを示している段が興味深かった。
だが、60歳や65歳までしがみついてから突如放り出されるより、
まだ心身が動くうちに積極的に生活を切り替えてゆくほうが、
むしろ良いように思われた。

15.8.17

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔』、稲垣えみ子『寂しい生活』

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』

この春過ぎに若手のキャリア国家公務員と話したとき、
森友学園問題に関する話題で「凡庸という罪」という言葉が挙がった。
思えばハンナ・アレント『責任と判断』をなんとか読んで早や8年、
書店で平積みされていたタイトルから、手に取った。

晶文社「犀の教室」シリーズの一で、おそらく中高生向け。
構成は前半にアイヒマン裁判とアレントによる分析を解説する。
政治においては服従と支配は同じものなのだ。」(70ページ、孫引き)という指摘は、
政治や官僚機構のみならず組織の一員たる者は心にとどめるべき箴言だ。
後半に現在の全体主義の実例として、
いじめ、改革至上主義、新自由主義、グローバル主義を批判する。

著者があとがきで、社会問題が同じような構造を抱えて回帰していると、
平成25年(2013年)に確信した、と書いている。
その構造とは思考停止だ、と。
同感だが、その理論づけをアレントの紹介で終えるのではなく、
本音と建前の二重構造や、実生活における社会=コミュニティの不在などを搦めて、
実地的に分析していればもっと面白かったのに、と思う。

稲垣えみ子『寂しい生活』

エッセイ。
京都の大垣書店で「自己啓発」の棚に配架されていた。
こういう脱臼させるような啓発もいわゆる「自己啓発」なのか。

原発を機に節電を始め、家電を一つずつ手放してゆく。
冷蔵庫を手放して気づいた「いまを生きる」ことへの目覚めとともに、
家電に煽られていた欲望、家電によって失った工夫や生活の智慧を、
取り戻してゆくという、内面的RPGめいたストーリーで書かれている。
気づきや変化が淡々と語られるうちに、自身の当たり前が崩されてゆく感じは、
なんとなく三浦清宏『長男の出家』の視点を思い起こさせた。

「買うこと」で豊かになった筆者の両親が、
家電の多機能化についてゆけず、モノの過剰に途方に暮れている、
そんな傍の描写が印象的だった。
高度経済成長を欲望とモノの亢進で生きた世代にとって、
生活をコンパクトに畳んでゆくという発想がいかに難しいか。
その行く末としてのゴミ屋敷を暗示させる。

さっと読み通せる文章だが、
内容は(「きょうの料理」みたいなところもあって)面白かった。
消費生活の豊かさへの疑問符が市民権を拡げて久しい。
この風潮がどこまで生き残れるか。
グローバル資本主義と貧困の問題へのボトムアップな意思表示として、
引き続き注視したい。

6.8.17

生田武志『釜ヶ崎から』、松田美佐『うわさとは何か』、東浩紀『弱いつながり』

生田武志『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』

ちくま文庫版。
日雇い労働者の街としての末期から、生活保護の街、ホームレスの街への変貌へ、
実際に釜ヶ崎での活動を通しての生々しいルポルタージュだった。
貧困がなぜ悪なのか、説得力をもって語っている。

釜ヶ崎へ行くと、そこに広がる光景が衝撃的であるために、
何らかの腑に落ちるようなものを感じることができる。
想像を絶するがゆえに、そこに人間がいて社会が、尊厳があるという現実が、
考えられずに済ませられるようになってしまっている。
特異ながら社会があって人が生きているという事実とその背景が見えないほどに、
どこから手をつけてよいかわからないほどにこんがらがっている。
その中へ入り込み、考えるためには、このような取材文はありがたい。

釜ヶ崎から少し視点を変えて、野宿者の実像にも取材している。
また、補章として、野宿者の高齢化・若年化や、女性、子連れの現実が語られている。
これは評論ではない。問題系だ。
言葉は想像を超える実態を淡々と述べ伝える。この圧倒的な問い。
制度ではなく身近なものとして、福祉とは何か、何ができるのか、考えさせられる。
それはおそらく、あり得た自分への救いの手でもあるはずだ。

松田美佐『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』

中公新書版。
うわさというものの生態学。
結局、伝達という機能で捉えると、うわさはメディアの一形態でしかなく、
うわさを真偽込みで定義づけすることはできない、ということのようだ。
その曖昧さは、ネットで補強されている。
もし本書がより最近に書かれていたら、偽ニュースをその極北として挙げただろう。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

幻冬社刊(幻冬社……久しぶりに読む出版社だ)。
中高生向けの軽い自己啓発含みのエッセイとして読むべきか。
内容は面白かった。検索窓という鏡の中に囚われた自我から、いかに抜け出るか。
そのために、場所を変えてノイズを導入することを薦めている。
(もしかすると、そのようなノイズ生成が、
 検索機能そのものに組み込まれるかもしれないが)

新倉貴仁『「能率」の共同体』

新倉貴仁『「能率」の共同体 近代日本のミドルクラスとナショナリズム』

岩波書店刊。

第二次大戦前のきな臭い軍国化より前に、
大正デモクラシーが国民国家の前提たる国民教育を完遂させた。
計画性、文化性、能率性を埋め込まれ、銃後で生産に邁進する。
現代風にいえば、文化主義は総力戦体制のデュアルユースだった、ということになる。
これは、大正という短い時代に対して
両大戦間期のモダニズム文化を見出だそうとするような憧憬にとって、
悪夢のような分析だ。

戦後は、丸山眞男があまりに哀しく取り上げられる。
丸山眞男は民主主義の担い手としての主体を目指したが、
経済成長はそもそも自己完結した主体ではなく、
生産し消費する市場化された主体として、国民を形成した
(私としては読みながら、シンガポールの街並みが頭に浮かんでいた)。
戦前と戦後は科学面、技術面で地続きとはよくある謂いだが、
国民の意識というレベルでも地続きであった、という分析だ。
丸山眞男から吉本隆明へという展開が、戦後派から第三の新人以降へという
大きな空虚を内面に孕みつつ豊かになってゆく文学風景をも説明しているようで、
非常に鮮やかな筆致だった。

それにしても、都市化、中流化、単一市場化は日本に限られないはずなのに、
何が日本を開発独裁体制のように突き動かしたのか。
もちろん、本書はその枠組みの原点を問うというより、
その枠組み下での思想風景を描き出すものではあるが、やはり疑問は残る。
もちろん、その追究は思想史の分野において限界があるのかもしれない。
対米や冷戦という構造でこそ、分析されなければならない領分ではあろう。

能率が人の手を離れようとしている現代において、いかに可能なのか。
技術革新は欲望を喚起しつづけているが、市場は飽和し疲弊つつあるようにみえる。
生産と消費の同時を引き受けるミドルクラスは、
その両輪のバランスを崩しているように思える。
massからdigitへという流れのなかで、大衆は徹底的に数値化され、
生産者ではなく消費者として搾取され、堕ちてゆくのだろうか。