15.8.17

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔』、稲垣えみ子『寂しい生活』

藤井聡『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』

この春過ぎに若手のキャリア国家公務員と話したとき、
森友学園問題に関する話題で「凡庸という罪」という言葉が挙がった。
思えばハンナ・アレント『責任と判断』をなんとか読んで早や8年、
書店で平積みされていたタイトルから、手に取った。

晶文社「犀の教室」シリーズの一で、おそらく中高生向け。
構成は前半にアイヒマン裁判とアレントによる分析を解説する。
政治においては服従と支配は同じものなのだ。」(70ページ、孫引き)という指摘は、
政治や官僚機構のみならず組織の一員たる者は心にとどめるべき箴言だ。
後半に現在の全体主義の実例として、
いじめ、改革至上主義、新自由主義、グローバル主義を批判する。

著者があとがきで、社会問題が同じような構造を抱えて回帰していると、
平成25年(2013年)に確信した、と書いている。
その構造とは思考停止だ、と。
同感だが、その理論づけをアレントの紹介で終えるのではなく、
本音と建前の二重構造や、実生活における社会=コミュニティの不在などを搦めて、
実地的に分析していればもっと面白かったのに、と思う。

稲垣えみ子『寂しい生活』

エッセイ。
京都の大垣書店で「自己啓発」の棚に配架されていた。
こういう脱臼させるような啓発もいわゆる「自己啓発」なのか。

原発を機に節電を始め、家電を一つずつ手放してゆく。
冷蔵庫を手放して気づいた「いまを生きる」ことへの目覚めとともに、
家電に煽られていた欲望、家電によって失った工夫や生活の智慧を、
取り戻してゆくという、内面的RPGめいたストーリーで書かれている。
気づきや変化が淡々と語られるうちに、自身の当たり前が崩されてゆく感じは、
なんとなく三浦清宏『長男の出家』の視点を思い起こさせた。

「買うこと」で豊かになった筆者の両親が、
家電の多機能化についてゆけず、モノの過剰に途方に暮れている、
そんな傍の描写が印象的だった。
高度経済成長を欲望とモノの亢進で生きた世代にとって、
生活をコンパクトに畳んでゆくという発想がいかに難しいか。
その行く末としてのゴミ屋敷を暗示させる。

さっと読み通せる文章だが、
内容は(「きょうの料理」みたいなところもあって)面白かった。
消費生活の豊かさへの疑問符が市民権を拡げて久しい。
この風潮がどこまで生き残れるか。
グローバル資本主義と貧困の問題へのボトムアップな意思表示として、
引き続き注視したい。

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