19.3.09

島田雅彦『退廃姉妹』、成瀬巳喜男『乱れる』


・島田雅彦『退廃姉妹』

「頽廃」の語は、姉妹にかかるのではなくて、
斜陽とか堕落と同様、敗戦後の占領期の日本、の意味だろうと思う。
姉妹の変化は頽廃ではなく脱皮だったし、
時代が時代でも若さ故か輝いて、
姉の西行きの旅は、あまりに雅があった。
その意味では、散る花の美しさのような日本の美があって
敗戦期の話とはまるで思えないし、
特攻隊も軍部腐敗も、官僚制の産物として笑う態度は
同じ日本の負をしかと見つめる態度として、
阿呆な耽美派右翼よりも冷静だった。
日本という文化は、どれもそうだけど、容れ物であって、
生け花とか茶道とかいう安直な上っ面ではない。
だから、闇市や占領期がそこに入ったところで、
日本式に換骨奪胎されるのだ。
だから、戦後に姉妹はアメリカを乗っ取ろうとするし、
エピローグに示されるように、姉妹は日本史に遍在する。


・成瀬巳喜男『乱れる』

乱れた場面なんてほとんどなかった。
義理の行く末をどこまでも描き切る、という感じはやはり流石。
終盤なのに、汽車に乗って舞台飛ぶしね。
清水だったのが、山形の大石田、銀山温泉まで。
高峰秀子の、翻弄されながらも哀しく耐える役柄って、いいね。
鼻にかかる話し方が、『浮雲』でも感じたが、
尾を引く過去のしがらみを背後に感じさせて、
損と云えば損なそんな役回りにぴったり。

18.3.09

夏目漱石『草枕』


枕草子草枕。回文?
いや、なんかタイトルだけ見ると似てるなぁって。

藝術の根本が耽美にあった時代だな、と思った。
シュールレアリスムも自然主義も、まだまだ新流派だったのだな、と。
でも、瞠目して観る態度は、藝術にとっては変わらない。
その意味で、単なる藝術論の随筆のようなこの小説は面白かったし、
第一に、文章の精度に酔うも心地よい。
ストーリーと藝術論が合致する結末は、鮮やかというほかない。

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ここ三日間ほど、横浜の生活に慣れ始めた気がする。
自転車にて家を出て、横浜駅西口を放浪したり、
海浜の公園で、音もない波を感じながら読書にあくびを交えたり、
県立や市立の図書館に行って開架を眺め歩いたり、
地名と地図を交互ににらめっこしながら道を誤ったり、
春だとて安い野菜を買ったり、炒めたり、煮たり。

15.3.09

吉田喜重『鏡の女たち』、夏目漱石『道草』、成瀬巳喜男『あにいもうと』


・吉田喜重『鏡の女たち』

女が鏡である。割れていても、記憶が戻らずとも、
原爆があろうと男が関わってこようと、
受け止めて生きてゆく。
ヒロシマさえ相対化されて見えてくるほど、
強さとしなやかさと、健気さがあった。


・夏目漱石『道草』

漱石らしくない。
自然主義ではないよね、漱石って? と確認してしまう。
自然主義的な切り口で、書き口は心理小説。
題材を見れば私小説。
天才文豪は何でも書けるのだな、と恐れ入った。
人間観察の鋭さは、さすが学問からその外部を見つめた漱石だ。


・成瀬巳喜男『あにいもうと』

室生犀星が原作だが、読んだっけ…?
犀星の小説はほとんど読んでいるはずだが、
ストーリーは記憶にない。
成瀬らしい愛憎の折り重なりを期待したが、
うーん…という感じだった。

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 1

世界的な経済危機を受け、2008年10月11日のLe Mondeに、
イマニュエル・ウォーラーステインのインタビューが
Le capitalisme touche à sa fin. というタイトルで掲載された。
http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2008/10/11/le-capitalisme-touche-a-sa-fin_1105714_1101386.html
世界システムという長期的展望からみると
今回の金融危機はどう捉えられるのか?
その点から、この記事は非常に興味深く、読む価値があるので、
邦訳し、以下に載せることにした。
ひどい訳だが、大意をとる程度には役立つかもしれない。



資本主義 その終りの始まり

──あなたは、2005年のポルト・アレグレでの社会フォーラム(「オルタナティブな世界のための12の提案」)の宣言の調印者であるとともに、オルタナティブな世界を推進する運動の提唱者とも捉えられています。ビンガムトンにあるニューヨーク市立大学でフェルナン・ブローデル研究所を設立・運営し、歴史システムや文明といった経済活動の研究をしていらっしゃいますが、現在起こっている経済金融危機は、資本主義の歴史という長いスパンにおいてどのように位置づけられるとお考えですか?

 フェルナン・ブローデル(1902-1985)は「長期持続」を時間と区別しました。人間から物質環境までの諸関係を支配するシステムが人間の歴史の中で続いてゆくのを観察できるための概念です。その諸局面の内部で時間は、さまざまな取り巻き環境の長いサイクルであり、ニコライ・コンドラチェフ(1892-1930)やヨーゼフ・シュンペーター(1883-1950)といった経済学者によってそれぞれ指摘されてきました。現在は明らかに、30年から35年前に始まった、コンドラチェフの波のB局面にあります。その前にあったA局面は資本主義社会の歴史の150年で最も長く続きました(1945年から75年)。

 A局面では、利潤は物質的、産業的あるいは他の生産によって生み出されます。一方でB局面では、資本主義が利潤追求を続けるためには、金融商品や投機に走らざるを得ません。30年以上前から、企業、国、世帯は全体的に借金をしています。コンドラチェフの波のB局面末期にあたる現在は、潜在していた凋落が現実的な問題に変わり、バブルが次々と崩壊してゆく時節に当たります。具体的には、倒産が数重なり、資本の集中が顕著となり、失業が進み、そして経済は現実にデフレの状況を経験することになります。

 しかし今日、取り巻き環境のサイクルの時節が、長期持続のふたつのシステムの間で推移しようとする時期と重なっていて、結果的にその変化を深刻化させています。結局のところ、30年前にもう資本主義システムの終局に入ってしまっていたのではないでしょうか。以前の取り巻き状況サイクルの不断の継続からこの局面を区別する根本としては、資本主義はもはや、物理化学者イリヤ・ブリゴジン(1917-2003)の云う意味での「システムづくり」に到らないということにあります。つまり、生物的にしろ化学的にしろ社会的にしろ、あるシステムが安定状態からあまりに強くあまりに頻繁に外れたとき、平衡状態に戻ることはもはやなく、分岐点にさしかかる、ということです。

 状態というものは、あるときまでそれを支配していた力にとっても混沌として手に負えないものになります。そしてシステム維持の賛成と反対が対立するだけでなく、何を後釜に据えるかという件であらゆる参与がぶつかり合います。こういうときにこそ「危機」という言葉が使用されるべきでしょう。我々は危機状況にあるわけで、資本主義が終りの始まりを迎えているのですから。

──これまでにも、結局は商業資本主義から産業資本主義の推移があったわけですし、産業資本主義から金融資本主義への移り変わりもありました。なぜ、資本主義の新形態はさほど言及されないのでしょうか。

 資本主義は雑食性です。あるときふと最重要物が利潤となれば、その利潤を呑み込みます。小さな限界利潤では飽き足らず、寡占状態を作り出すことで利潤を最大化しようとします。最近ではバイオテクノロジーや情報科学においてもそのように振る舞おうとしていました。しかし思うに、システムの現実の蓄積の可能性は、限界に達しています。資本主義は16世紀後半に出現して以来、利潤の集中する中央と、どんどん貧困化する周縁部(必ずしも地理的な意味ではない)との間で、富の差異を喰いものにしてきました。

 この点について、東アジア、インド、ラテンアメリカの高度経済成長は、蓄積費用をもはや制御できないヨーロッパが作り出した「世界経済(l'économie-monde)」にとって、抑えがたい驚異となっています。人件費、原材料、税金という三つの世界価格はここ数十年、どの地域でも強い上昇を見せています。現在終焉しつつある新自由主義的な短い期間は、一時的にこの傾向に歯止めをかけました。つまり、90年代末、これらの価格は確かに70年代より低水準でしたが、それでも45年よりずっと上でした。ところが実際は、現実の蓄積というものの末期にあたる「栄光の30年」(1945-1975)はあり得なかったのです。というのは、ケインズ主義をとった国々は資本の供給に力を注ぎました。しかし、そのときからすでに、限界が来ていたのです。

(続く)

14.3.09

信仰を司る脳(ル・モンドより、拙訳)

【原文】Le cerveau à la foi(Le Monde au 10 mars 2009より)

Des chercheurs déclarent, dans le journal américain Proceedings of the National Academy of Sciences du 9 mars, avoir localisé la zone du cerveau qui contrôle la foi religieuse. Selon leurs travaux relatés dans The Independant, la croyance en un pouvoir supérieur, céleste, est un atout de l'évolution qui aide les hommes à survivre.

La croyance en un dieu serait profondément ancrée dans le cerveau humain, qui serait programmé pour l'expérience de la religiosité. Pour le professeur Jordan Grafman, du National Institute of Neurological Disorders and Stroke à Bethesda, près de Washington, "la foi et le comportement religieux sont des traits de la vie humaine qu'on retrouve dans toutes les cultures et qui sont sans équivalent dans le règne animal". "Nos résultats démontrent que les constituants spécifiques de la croyance religieuse concernent des circuits du cerveau connus."


"L'AIRE DE LA FOI"

Les scientifiques qui cherchaient "l'aire de la foi", supposée contrôler la croyance religieuse, pensent qu'il n'y pas une mais plusieurs zones du cerveau qui forment les fondations biologiques de la foi. Le cerveau aurait évolué en devenant plus sensible à toute forme de croyance qui améliore les chances de survie. Ce qui pourrait expliquer pourquoi la croyance en un dieu et au surnaturel est si répandue à travers le monde.

La communauté scientifique, les philosophes et les théologiens sont divisés sur l'origine de la foi. Pour certains elle est d'origine biologique, pour d'autres culturelle. Des théoriciens de l'évolution prétendent que la sélection naturelle darwinienne a pu mettre l'accent sur les individus qui sont croyants et dont les chances de survie seraient supérieures à ceux qui ne croient pas. D'autres ont suggéré que la foi était juste la manifestation du phénonomène biologique intrinsèque qui fait du cerveau humain un organe si brillant et adaptable.



【拙訳】信仰を司る脳

『アメリカ科学界会報』誌は3月9日、脳において宗教的な信仰を司る領域が特定されたと発表した。The Independant誌にその成果が詳しく述べられており、それによると、高次的な天の力を信じることは、ひとが生き延びるのに役立つ発達の一つの切り札であるという。

神的存在を信じることはヒトの脳に深く根を下ろしていて、宗教経験に適合するようプログラムされていると考えられる。国立神経疾患・脳卒中研究所(ワシントン近郊ベゼスタ)のジョーダン・グラフマン教授は、次のように語っている。「宗教的な信仰と活動というのは、ヒトの生活の特徴だ。すべての文化に見いだすことができ、動物界には例がない」。「この研究成果の示すところは、宗教信仰の特定の構成要素は、ありふれた脳回路と関わりがある」。


  信仰野

宗教信仰を司るとされる「信仰野」を研究してきた科学者は、信仰の生物学的機能を形成する脳の領域は一箇所ではなく複数あると考えている。脳は、生き延びるための機会を活かす思考のあらゆる形式に対して敏感になることで発達してきたのかもしれない。神や超自然的なものをなぜ信じるのかを説明しうることは、世界中でよく知られている。

科学界、哲学者、神学者は信仰の起原について、生物学に端緒を求めたり、文化的な産物とみなすなど、意見を対立させている。進化論の理論家の主張では、ダーウィニズム的な自然淘汰で信仰ある個体を際立たせ、生き延びる機会が無信仰の個体を優越したのだという。異見では、信仰は単なる生物学に固有の現象の顕われに過ぎず、そのことがヒトの脳を適応力の高い優れた器官にしたとされる。