イマニュエル・ウォーラーステインのインタビューが
Le capitalisme touche à sa fin. というタイトルで掲載された。
http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2008/10/11/le-capitalisme-touche-a-sa-fin_1105714_1101386.html
世界システムという長期的展望からみると
今回の金融危機はどう捉えられるのか?
その点から、この記事は非常に興味深く、読む価値があるので、
邦訳し、以下に載せることにした。
ひどい訳だが、大意をとる程度には役立つかもしれない。
資本主義 その終りの始まり
──あなたは、2005年のポルト・アレグレでの社会フォーラム(「オルタナティブな世界のための12の提案」)の宣言の調印者であるとともに、オルタナティブな世界を推進する運動の提唱者とも捉えられています。ビンガムトンにあるニューヨーク市立大学でフェルナン・ブローデル研究所を設立・運営し、歴史システムや文明といった経済活動の研究をしていらっしゃいますが、現在起こっている経済金融危機は、資本主義の歴史という長いスパンにおいてどのように位置づけられるとお考えですか?
フェルナン・ブローデル(1902-1985)は「長期持続」を時間と区別しました。人間から物質環境までの諸関係を支配するシステムが人間の歴史の中で続いてゆくのを観察できるための概念です。その諸局面の内部で時間は、さまざまな取り巻き環境の長いサイクルであり、ニコライ・コンドラチェフ(1892-1930)やヨーゼフ・シュンペーター(1883-1950)といった経済学者によってそれぞれ指摘されてきました。現在は明らかに、30年から35年前に始まった、コンドラチェフの波のB局面にあります。その前にあったA局面は資本主義社会の歴史の150年で最も長く続きました(1945年から75年)。
A局面では、利潤は物質的、産業的あるいは他の生産によって生み出されます。一方でB局面では、資本主義が利潤追求を続けるためには、金融商品や投機に走らざるを得ません。30年以上前から、企業、国、世帯は全体的に借金をしています。コンドラチェフの波のB局面末期にあたる現在は、潜在していた凋落が現実的な問題に変わり、バブルが次々と崩壊してゆく時節に当たります。具体的には、倒産が数重なり、資本の集中が顕著となり、失業が進み、そして経済は現実にデフレの状況を経験することになります。
しかし今日、取り巻き環境のサイクルの時節が、長期持続のふたつのシステムの間で推移しようとする時期と重なっていて、結果的にその変化を深刻化させています。結局のところ、30年前にもう資本主義システムの終局に入ってしまっていたのではないでしょうか。以前の取り巻き状況サイクルの不断の継続からこの局面を区別する根本としては、資本主義はもはや、物理化学者イリヤ・ブリゴジン(1917-2003)の云う意味での「システムづくり」に到らないということにあります。つまり、生物的にしろ化学的にしろ社会的にしろ、あるシステムが安定状態からあまりに強くあまりに頻繁に外れたとき、平衡状態に戻ることはもはやなく、分岐点にさしかかる、ということです。
状態というものは、あるときまでそれを支配していた力にとっても混沌として手に負えないものになります。そしてシステム維持の賛成と反対が対立するだけでなく、何を後釜に据えるかという件であらゆる参与がぶつかり合います。こういうときにこそ「危機」という言葉が使用されるべきでしょう。我々は危機状況にあるわけで、資本主義が終りの始まりを迎えているのですから。
──これまでにも、結局は商業資本主義から産業資本主義の推移があったわけですし、産業資本主義から金融資本主義への移り変わりもありました。なぜ、資本主義の新形態はさほど言及されないのでしょうか。
資本主義は雑食性です。あるときふと最重要物が利潤となれば、その利潤を呑み込みます。小さな限界利潤では飽き足らず、寡占状態を作り出すことで利潤を最大化しようとします。最近ではバイオテクノロジーや情報科学においてもそのように振る舞おうとしていました。しかし思うに、システムの現実の蓄積の可能性は、限界に達しています。資本主義は16世紀後半に出現して以来、利潤の集中する中央と、どんどん貧困化する周縁部(必ずしも地理的な意味ではない)との間で、富の差異を喰いものにしてきました。
この点について、東アジア、インド、ラテンアメリカの高度経済成長は、蓄積費用をもはや制御できないヨーロッパが作り出した「世界経済(l'économie-monde)」にとって、抑えがたい驚異となっています。人件費、原材料、税金という三つの世界価格はここ数十年、どの地域でも強い上昇を見せています。現在終焉しつつある新自由主義的な短い期間は、一時的にこの傾向に歯止めをかけました。つまり、90年代末、これらの価格は確かに70年代より低水準でしたが、それでも45年よりずっと上でした。ところが実際は、現実の蓄積というものの末期にあたる「栄光の30年」(1945-1975)はあり得なかったのです。というのは、ケインズ主義をとった国々は資本の供給に力を注ぎました。しかし、そのときからすでに、限界が来ていたのです。
(続く)
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