6.3.18

義江彰夫『神仏習合』、森鷗外「高瀬舟」「山椒大夫」

義江彰夫『神仏習合』



つまるところ神仏習合は、
支配階級の場当たり的で宥和的な後づけの論理によって、結果論的に形成された。
そのどっちつかずで見通しのつかないままできあがってしまった歴史は、
いかにも日本らしい。
本音と建前の併存が染みついている。

以下、内容の概要。
各地方の支配階級が私営田領主として富裕化したため、
共同体本位の呪術的な神事がもはや支配の裏づけとならなくなった。
よって、8世紀後半、雑密の遊行僧が仲立って、
土着神の仏教帰依という形で神宮寺がつくられ始める。
朝廷は、神事による支配への逆戻りはできないため、
神宮寺の公認による支配へと方針転換する。
10世紀、租税が神祇的な奉納の意味づけから封建的制度へ転換され、
王朝国家体制下の社会的、身分的な不満が怨霊信仰となり、
密教は王権を相対化する理論として後ろ盾となった。
また、律令体制から王朝国家体制へと移り変わるなかで、


王権はケガレ忌避の観念が神祇から日常生活にまで拡大することで、
貴族社会そのものを神聖化し、日本固有の祭祀観念として密教に対峙した。
その時代背景が、従来の穢れた「黄泉の国」ではなく極楽浄土を説く
阿弥陀浄土信仰と結託し、阿弥陀信仰が貴族社会に浸透する。
仏教が神道を包摂した結果、平安末以降の本地垂迹説が登場し、
日本神話そのものを仏教が前提として存続する。

神道は仏教という外圧があってはじめて体制をなした。
だから、神仏分離や純粋な神道というものは、どだい無理な話だ。
少なくとも律令期まで遡る必要があるし、
それさえ各共同体の祖先崇拝が国家-地方間に編成された論理だ。
今も昔も国家宗教は支配の論理であり、伝統が騙る裏には必ず意図がある。

岩波新書版。

森鷗外「高瀬舟」

欲望の充足と、安楽死について。
二つのテーマは、「何も持たないこと」という共通項で貫かれている。
何も(欲望も)持たないから二百文は喜ばしい貯蓄だし、
安楽死とその罰としての島流しは、此岸にしがらみがないゆえだ。
すると、持つことの二重性が問われる。
持つ者はさらに持とうとし、さらに身動きが取れなくなる、と。

青空文庫版。

森鷗外「山椒大夫」

厨子王は貧しい暮らしから、奴婢となり、僧となり、国司となる。
物語は絶えず場面を移動させ、厨子王の立場を転がし、
しかし、父母への思いだけは変わらない。
ロードムービーのようだと思った。

青空文庫版。

23.2.18

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』、團藤重光・伊東乾『反骨のコツ』

藻谷浩介、NHK広島取材班『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』

過疎地が自ら智慧を絞り、放擲されていた資源を活用することで、
市場へ流出していた貨幣流通を地域内にとどめ、
結果としてスマートグリッド的な地産地消経済が回りつつある、という。
実例として、木屑によるバイオマス発電を行ったり、
商品にならなかった農作物を、地域通貨によって地域の施設へ回したり。
地域振興という都市部による上から目線の思考ではなく、
主体的に考えて行動する、という責任感と自信がある。
どこまでも細かく分業し、市場と貨幣により抽象化される、という都市の疲弊がない。

NHK取材班による事例のみではなく、
藻谷氏による経済学的な裏づけがなされていて、説得力がある。
何より、自らを労働力と貨幣の交換する、という無機質な世界から逃れ、
人が集まって生きている、という地域圏がセーフティネットとして存在する。
そこには次世代へのヒントどころか答えがあるような気がしてならない。

「角川oneテーマ21」新書。
初版は2013年7月なので、東日本大震災から半年後。


團藤重光、伊東乾・編『反骨のコツ』

10年ほど前、日経ビジネスオンラインに掲載された両者の対談を読んだ記憶がある。
團藤重光氏が長く東京大の教員で、
元・最高裁判事なのは知っていたが、
敗戦後、刑事訴訟法を起案したというのは知らなかった。
私は法律学を訓詁学とみなしていたが、
氏は、訓詁学以前の哲学や思考から、法律に関わってきた、ということだ。
日本国憲法や種々の基本的な法律が施行される時代、
法の運用は判例によってではなく、
GHQの意向をうかがいながらも、新時代の日本への展望が息づいていた。
その時代の述懐は、興味深かった。
陽明学の知行合一に貫かれて、最高裁判事としても多数に与しない、
その生き方は、痛快だし、勇気づけられるものがある。

対談なので、話題は揺れ動くが、多くは死刑について。
アイヒマン的な凡庸さの罪が、
死刑に立ち会う教誨師に通底する、という指摘や、
1948年の最高裁死刑合憲判決が、
GHQへの忖度を含み将来への展望を語る、という紹介があって、興味深かった。

タイトルが内容と遊離していること、ときおり伊東氏の独壇場になっていること、
がやや残念だった。

18.2.18

手塚治虫『陽だまりの樹』、山本周五郎『青べか物語』

手塚治虫『陽だまりの樹』

幕政末期の武士と蘭方医の物語。
幕府のクズっぷりが笑えるが、対して現代が思いやられて凍りつく。

山本周五郎『青べか物語』

浦粕という東京近郊の漁村の観察日記めいた掌篇連作。
各章で描かれる人物はみな奇妙で滑稽ながら、生身が感じられる。
時間の感覚がとろっとして、不思議な読中感に浸る。

一年前に文学座の公演を観てから原作に興味があって、
今年で著作権が切れると同時に公開された青空文庫版で読んだ。

19.1.18

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』、正岡子規『病牀六尺』、村上春樹『騎士団長殺し』

斎藤潤『日本《島旅》紀行』『沖縄・奄美《島旅》紀行』

筆者は旅ライターという肩書きだが、文章が巧くて読ませる。
描写は短くもキレがあって、旅先の雰囲気や人柄を捉えている。
ときどき挿まれる写真が興ざめなぐらいだ。
だから、旅情がわくというより、楽しい旅の知らせを聞くようだった。

『日本《島旅》紀行』は、利尻島に始まり、
東京都島嶼部や瀬戸内の島々など日本中の島をめぐる。
『沖縄・奄美《島旅》紀行』は、沖縄と奄美の島々だ。
切り口は決まって、その島ならではの雰囲気や暮らし、人との交流だ。
どの島も狭い世界では決してなく、一つの宇宙であって、
豊かな歴史と文化がたくわえられている。
航路ひとつとっても外界とのありようをさまざまに規定するし、
面積や地形や、どの程度の道路や舗装があるかも、決定的だ。
食や伝統や風景だけではない観察眼が、島を富ませる。
旅は、こうありたいものだ。

どちらも光文社新書版をkindleで読んだ。

正岡子規『病牀六尺』

言葉が世界そのものだ、と実感する。
筆者が病床の一室で、苦しい闘病を強いられているにしても、
絵を愉しみ、俳諧を詠み、人と話し、新聞記事について考える、
その営みを時間に流し去るのではなく言葉にするというだけで、
子規の病床は間違いなく賑やかで変化に富んでいた。
思いつくまま句を作ってみるなんて、しかもその句のおかしさよ。
逆に、言葉を喪っては、しわくちゃの老いと病にすぎない。
その決定的な落差に唖然とする。

岩波文庫と青空文庫を併用して読んだ。

村上春樹『騎士団長殺し』

ユーモラスな異形がしばしば登場するからか、
暗闇の洞窟のような試練を抜けるからか、
読後感はいかにも『千と千尋の神隠し』だった。
村上春樹の長篇はどれも多かれ少なかれRPGだ。
主人公が特権的に自らを探究する。

語り口が読者への丁寧な説明を意識する傾向は、いっそう強まっていると思った。
章立ては短く、時系列は参照されても交錯はしない。

2.1.18

手塚治虫『奇子』、田端信太郎『MEDIA MAKERS』、荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』、藤原智美『文は一行目から書かなくていい』

手塚治虫『奇子』

手塚治虫にとって戦後という現代は、
都市と田舎、民主化と封建、カネと正義の対立を抱えた高度経済成長であり、
どこか禍々しく歪んだ過ち、だったに違いない。
その戦後日本の象徴として、主人公はGHQスパイとして戦後に生きて帰り、
朝鮮戦争特需を境にヤクザとして金ピカな生涯を送る。
読後感の裏づけとして、昔に読んだかすかな記憶から浮かんだのが、
『ネオ・ファウスト』『きりひと讃歌』『グリンゴ』だった。

kindle版で読んだ。iPhoneの画面で漫画は読みにくかった。

田端信太郎『MEDIA MAKERS──社会が動く「影響力」の正体』

メディア業界を知り尽くした著者ならではの観点で、面白い内容だった。
特に、消費者の具体的なペルソナを描いているという業界バナシは興味深かった。
ただ、メディアの信頼の担い手が企業・組織から個人へ移行してゆく、
という主張は、やや疑問を抱いた。
結局、メディアが信じるに足りるかどうかは、是々非々だからであり、
企業・組織か個人かという責任の有限無限の違いを、
権威を感じる消費者は、強く意識していないように思われるからだ。

メディア業界の人々の文章はおしなべて似ている、
そういう印象がはっきりしたように思われる。
繰り返し、言い換えが多い。紋切り型で結論を飾る。
よく言えば、噛んで含めるよう。悪く言えば、冗漫。
加えて、小馬鹿にしたような口の悪さや刺々しさがある。
読ませるためにメリハリをつけるためのテクニックが、
瞬間的、刹那的、テレビ的であるように思われる。
言葉が発せられたとたんに萎びる消費メディアの業界の性質ゆえか。
事実や語りという本質を措いていかに惹きつけるか、の世界だからか。

kindle版。元は2012年宣伝会議刊行。

荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』

東日本大震災直後に出回った流言・デマが多く紹介されていて、
twitterによって多くの情報拡散をして(しまって)いた記憶が蘇った。
著者は、情報需要に供給が追いついていない状況が流言・デマを生む一因とし、
流言・デマを一つずつ挙げては公式情報を以て打ち消してゆく。

が、当時、東京電力をはじめとして政府やメディアといった、
大枠の既存制度、権威そのものが、あまりに大きく揺らいでいた。
つまり、公式情報や報道は、流言・デマの火を完全に消しえただろうか。
実際、当時のように報道への疑問は、いまだに我々に蟠っているように思える。

本書は地震発生から2ヶ月後の2011年5月に、反デマの"まとめ"として上梓された。
が、"検証"と題して今なお販売されている以上は、
"正しい公式発表"と"誤った流言・デマ"の二項対立を越えて、
その構造そのものの深層を掘り下げてほしかった。

kindle版。元は光文社新書。

藤原智美『文は一行目から書かなくていい 検索、コピペ時代の文章術』

文章術として網羅的かつ細やかで、良著に思われた。
文章の本質は「ウソ」です。ウソという表現にびっくりした人は、それを演出という言葉に置きかえてみてください。
という書き出しからまず実践的。
具体的な読み手を意識せよという指摘は、
上の『MEDIA MAKER』のペルソナに通じる。

kindle版で、元はプレジデント社刊。