31.5.10

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

時間と登場人物が交錯し、円環する。
こんなに不思議で神秘的で神話的で構造的で冷徹な小説は、読んだことがない。
一人称がどんどん入れ替わり、思い出を語り、思い出はさらに過去を語る。
声と過去が層を織りなし、それが生きられた歴史なのか、みないなくなった残滓なのか。
とにかく物悲しい。そして、これは文学だと思った。

街にいた神父が叛乱軍に加わり街を見捨てた、という語りは、物語の円環においても
暴力的な外部として、決定的に状況をずらす。
その下りは非常に胸を打った。
神父だけではない、みな悩んで悔いて、考え、語りあい、そしてずるずると朽ちてゆく。
一生懸命に朽ちてゆくのだ。

街からは誰もが消えて、影と声だけを発する死者たちが残される。
何度か読まねば。ちょっとまだわかりかねている。

27.5.10

カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』、アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』

・カルロ・ゴルドーニ『抜目のない未亡人』

劇作家ゴルドーニを知ったきっかけは、
ジャック・リヴェットの映画『恋ごころ』と山口昌男の評論『道化の民俗学』。
つまり、偶然。
特に後者でゴルドーニに興味を持ったので、
アルレッキーノの振る舞いに注目して読んだ。
もっとも、この作品では、混ぜっ返し役としてではなく、
もっぱらメッセンジャーの役割だった。

作品は西欧諸国のステレオタイプの男たちが登場する。
もっと卑近に言い換えれば、自らのキャラが毀れないように腐心する連中だ。
これは誰の近辺にも少なからずいるだろう。
もっとも笑われるべき、硬直した連中だ。
その隙をアルレッキーノやロザーウラが縫う。
それがないと、粗筋はもっと演繹的論証みたいになってつまらない。


・アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』

ベースに描かれる生活の倦怠のえげつなさ、処置なさが、凄まじかった。
舞台はFlanche-Comté地方のBelfort。
存在は知っていたものの、まぁ何もなさそうな町だ。
クリーニング屋の夫妻が、仲睦まじそうに見えるが、
実際にはどうしようもない倦怠と閉塞に取り憑かれている。
夫の無表情と視線の泳ぎなんてもう、
「一家の主人という役柄にしがみついて怯える夫」そのもの。
この破滅の物語をドライクリーニングと題してしまう突き放し方がすごい。
妻役のmiou-miouが綺麗。

24.5.10

柄谷行人『日本近代文学の起源』

読まねばとばかり思いつつ敬遠していた作品。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。

実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。

言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。

22.5.10

ドン・デリーロ『コズモポリス』

SF映画を観ているような感覚だった。
違うのは、SFがハイテクを背景として無自覚にハイテクを礼讃するのに対し、
ハイテクを背景とすることでハイテクを相対化することなく吟味していること。
ハイテクに対して身体性が描かれるが、ハイテクはすでに生活に埋め込まれているため、
二項対立の一方として相対化できない。

金融市場経済の数字ゲームに思考を侵されるあまり、
万物が記号じみて捉えられた記述となる。
基軸通貨がネズミとなり、
椅子の部品としての脚という名称に疑問を感じ、
非対称を怖れる。

18.5.10

東浩紀×北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』

都市の郊外化に最近興味がある。その範疇で手に取った本の一つ。
ただ主題は郊外ではなく、東京という一つのシミュラークルをどうやって一実体として捉えるか。

最も興味深かったのは、郊外化とは都市を中心のその周辺を従属させる動き、というのではなく、コンビニ的ライフスタイルを創出するための無機質な周辺環境(これを首都圏の幹線道路から「16号線的」といっている)と捉え、よって都心部の郊外化が現象として現れ始めている、という指摘だった。実際、恵比寿や品川を訪れるときに漠然と感じる薄っぺらさは感じていたが、それをズバリと言い当てられたような気がした。

加えて、バリアフリーの名の下で行われる大規模な再開発が、雑多なその街の個性を一掃するという今後の趨勢。足立区と荒川区の雰囲気の違いが一例とされていた。街が八方美人となり、穴場の店や細い路地といった隠れ家がすべてなくされること、イコール、16号線化、とすると、これはまさにシミュラークルだ。すべてが明るみに出されていて隠すところがない、しかしそれでいて薄っぺらくて捉えどころがない、という難点。

晴海などウォーターフロントの工業地帯の再開発・宅地化が、高層マンションとその生命線たるイオンの合体、というミニマムな16号線的な街となる、というのは、まさにそのため。工業地だったため道路はもともと見通しよく整備され、商店街や個人経営店舗といった住環境の歴史がない。

高所得と低所得の区分が必ずしも生活の質の上流と下流を区分しなくなった、という指摘は、ここから導かれる。チェーン店文化ではせいぜいスタバとドトールの上下関係しかあり得ない。一方で、足立区や川崎市のブルーカラー域と、23区西部といったホワイトカラー域と、居住がかなり明確に分離している。それでいて、それぞれを歩いてもさほど格差を感じさせないのはどうしてか? ここで見方を反転させて、16号線化が生活水準の差異を覆い隠す装置として機能している、としたところは、けっこう頷けた。

若林幹夫の新書と同様に、郊外の実体験から語られ始める。郊外を単に伝統の喪失とか画一化といった外からのステレオタイプで捉えられないためには、やはりそれを実体験として知っておく必要があるためなのか、それとも、郊外という摑みどころのない多元的な状況を現象学的に捉えるためには内から見つめるしかないためなのか。とにかく、そうやって大雑把に体験から語り始めることで、「ファスト風土」とかそういった保守的な批判からは距離を置いて、多角的に議論されていたように思う。だから、面白かった。