24.5.10

柄谷行人『日本近代文学の起源』

読まねばとばかり思いつつ敬遠していた作品。
ようやく手に取ることができ、安堵している。
根源的な思索と、歴史をも問い直す遡行の手さばきは、流石。

実際に語られているのは、非西欧の西欧化の意識転回だ。
このことへの気づきは、英語版への序文によって著者自身に触れられ、
韓国語版への序文によって決定的になっている。
特にそのような制度創出として書かれているのは、
言文一致、内面性の発見、ジャンル、についての箇所だ。
言文一致は普通教育を、
内面性の発見は普通選挙を(cf.柄谷行人『日本精神分析』)、
ジャンルは国史の作成を、それぞれ表している。

言文一致という俗語創出が、内面事象の記述手段の獲得として、
告白という文学ジャンルへ繋がる、この議論の進行は、ダイナミックだった。
つまり、文語文がその型式に囚われるあまり、
内省を抑圧する装置として働いていたということが、逆に驚きだった。
マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読んだとき印象的だった、
表音文字による文字文化についての執拗な分析が思い出された。
マクルーハンの語彙で云えば、「ホットなメディア」たる声が文字に記録され、
それが音読ではなく醒めた目に晒されて意識内で反復するときが、
「クールなメディア」の始まりだった。
これが西欧での「内面の発見」だったということになる。
活版印刷術を経験しても。表意文字と文語文によって抑圧された内面が現れるためには、
どうしても言文一致(発話文法=音声 の優位)が必要だったのだ。
だから日本では言文一致運動が起き、中国では白話文学が興り、
トルコではローマ字採用が進んだ。もちろんこれは、
国民国家の必要条件たる均質な国民という意識を誘発する。
方言ではない人工言語が標準づらをして、国内の隅々まで行き渡るからだ。

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