27.8.08

狭き門より入れ/この門はお前のためのものだった

今日は移動時間がだいたい11時間ほどあったので、
しんどかったものの、休憩を入れつつもゆっくり読書することができた。
以下の二冊を、最初から最後まで読了できるほどだった。

○アンドレ・ジッド『狭き門』
コンスタンやラディゲみたいな恋する心理小説の類いかと思いきや、
主題がキリスト教となると、書かれ方が似ていようと趣はだいぶ変わる。
価値観の擦り合わせというか……部外者はあまり大きなことは云えん。

○フランツ・カフカ『審判』
もちろん粗筋は知っていた。
あるサラリーマンがいわれもなく逮捕され、なのに拘束もされずに日常生活が続く。
そんな中で、よくわからないまま裁判が行われ、「犬のように」殺される……。
でも、読んでみて、これは単に官僚主義批判ではないし、そうは書かれていない。
もしそうなら、例えばなぜ裁判所とスラムが同一とされているのか。
最後に主人公が気づくように、容疑が非同調ということなのであれば、
スラムの連中だって誰だって裁判官として、「彼はKYだ!」と死刑にできる。
第一次世界大戦前期に書かれたという背景を考えれば、この全体主義性はもっと血腥くなろうが、
だがしかし、巨大な機構としての全体主義なのにムラ、ここらへんが総力戦の精神というか、
アホナショナリズムの排他性というか、そのようなことを考えながら読んでいた。
もちろん機構は法治主義であってもいいし、資本主義であっても、軍備であってもいい。
裁判は生活のすぐそばに、当たり前のように根づいている。のに、その実態は誰も知らない。
気がつけば、そんなものだらけだ。
コンビニも、テレビも、郵便も、我々には末端しか見えておらず、
裏でどんなことがされているかも漠然としかわかっていないのだ。
……そういえば、『未来世紀ブラジル』って、まさに『審判』っぽいな。

24.8.08

18, (20), 21, 45

三年半ぶりに、高校のときの先生にお会いした。
高三の折り、柄谷行人を読んでいたら一言アドバイスをくれ、
修了間近になると授業で、人生についての講義のようなことをして下さった先生である。
人生講義とはいっても、全く堅苦しくなくて、
ニザンやヘミングウェイや内田樹を引きながら
哲学的な雑談だったわけだけれども、
Genius lociの話は、大阪を離れることになっていた自分にとって、
個別に聞かされているように感じるくらい特別な内容だったし、
18歳だった自分にとって「私は二十歳だった」話は、
現在21の自分からしても、je ne laisserais personne le direである。
なにより重畳なのは、自分にとって時間=歴史の吹きだまりのような地で
先生に再会できたことだった。
その地にいる人々の表情、話し振り、立ち居振る舞いは、
なぜか自分にとって、昔も今も変わりない。
そんな「路地」のような場所で、しかもその「路地」はマンションに再開発され、
自分も外国帰りで、そんな断絶の後に、ふと、先生と出会ったのだった。

本の話だった。本を巡る、先生の人生だった。
(C'était une histoire autour des livres : son histoire autour de ses livres.)
先生の話は、どれも興味深かった。
高木仁三郎、鳥飼哲、山田稔、浅田彰、庄司薫、いろいろな人物名が取り巻きとして出てきて、
オリュウノオバの語りではなく、スライド式の本棚に収まりきらない蔵書に織り込まれた、
多種多様でありつつ一本に繋がった話だった。
「これがこの話と繋がるんだけど、」と先生が何度も口にしていたのは、
つまり、そういうことだったのだ。

先生からのアドバイス。
本には、入手した場所(書店)と日付を記しておくこと。
脳裡をよぎったのは、青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』だった。
日付を附された無数の書物が、その日付によって連なり、円環してゆく。
物語は繰り返す、まさに、先生と自分が久しぶりに出会い、語り合うように。
(もちろん、「物語」と「人生」は、ここでは同義 «histoire» だ)

23.8.08

voix
voie
(je/tu/il/elle) voie(s)
どれも同じ発音だけれど、声、道、視る、……好きな短篇映画を思い出した。

声について。
声が聞きたいからSkypeをして声を聴く。
この距離は声しか届かないし、それも電気信号にコード化され、解読されたものだが、
いつもより優しく聞こえるのは、自我の発露だろう。
あるいは、それは再発見だ。

初対面の人に、まったく関西なまりがありませんね、と感心(?)された。
横浜での出来事。
私見では、横浜弁と東京弁はえらく違う。
東京はべらんめえ調、横浜はそれにぼかしを加えたようで、より柔らかい。
比較すると、両者とも東北弁との何かしらの共通項があり、両者とも関西弁とは異質だ。
西日本と東日本、広葉樹林帯と針葉樹林帯で決定的な差異がある、
この網野善彦の説に初めて触れた何年前かの初夏、衝撃的だった。

消えた自分の大阪弁は、帰阪して数日経ったいまではもう無意識なものになったけれども、
それは、記憶の奥にある外套。ニコライ・ゴーゴリ。後藤明生。

« Très bien. »を「トレ・ビアン」というのがフランスなら、マルセイユはフランスではない。
寧ろ、フランスって何?
南仏はイタリアっぽい、あるいはスペインっぽい。フランスじゃない。
アルザスはドイツすぎる。フランスじゃない。
ブルターニュ? ブリテンじゃないか。フランスじゃない。
フランスじゃない、フランスじゃない、……。
何が残る? ──Rien.
「フランス」をあらゆる名詞に置き換えるまでもなく、気づいたこと。
形容詞とはステレオタイプである。


深夜、一日の重力にとうとう耐えられないその声を
俺は静かに揺さぶって、なでる。

17.8.08

ダンテ『神曲』煉獄篇第10歌第123〜125行

おお高慢の基督者よ、
倦みつかれ、
みじめな境涯に沈淪しながら、
心眼に疾するにより、
意気揚々とあとじさりするものよ
  (寿岳文章訳)

(煉獄山第一冠、高慢者の域)

10.8.08

内向2

黒井千次『時間』。
タイトルがえらく哲学的にごろんと横たわっているものだから
長らく躊躇してきた作品だが、そんなんではなかった。
人がどのように課長になるのかを描き、どのように社会が作られているのかを知り、
どのように時代が流れてゆくのかを理解できる、という非常に精巧な短篇。
かくありたい。

『マルコムX自伝』は、ここ数週間でゆっくりと読んで、昨日読了。
自伝って、本を読む愉しさの最も現れるジャンルに思われる。
特に、彼のような激動の人生を歩んで死んだ人間の自伝は、
小説でもあり評論でもあり人生訓でもあり哲学書でもあり冒険譚でもある。
人と社会と歴史のそれぞれがどっぷりと浸っているから、
どんな人文書のジャンルだと云っても過言ではないくらい。
これは必読かもしれない……。

さて、そんなことを云っているうちに、
待ち人がローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の1/3を読破した模様。
どうして、夏目漱石『吾輩は猫である』のネタ本になったりと、
日本文学にもかくも影響を与えた本が
ちょっとコアな文学マニアしか知らないのかがわからない。
さて、自分は次に何を読もうか。

7.8.08

内向

「内向の世代」。
誰もが知っているとおり「第三の新人」に続く作家たちをいう言葉だが、
あまり結びつきは強くなかったらしい。

後藤明生『挟み撃ち』を読んだ。
ゴーゴリの『外套』に肉付けしたようであり、また別の作品でもある。
どんな人間も個性なんて申し訳程度にも持ち合わせてなんかいない。
誰にでもあるような、或はちょっとだけ珍しいかもしれない出来事・出会いの羅列の中で
自ら勝手に組み立てた一貫性のことを、烏滸がましくも人は個性などと呼び、
先天的なものであると勘違いしつつ、生きているだけなのだ。
うすうすわかっているけれど、こんなにはっきり飄々と宣告してくれなくても良いのに。
……そんな、大変面白い小説だった。あっという間に読めてしまった。

黒井千次『聖産業週間』を読んだ。
これもまた現代的、というか、最近の文学こそかくあるべし。
なんで最近の小説はおおかたが単なる日記なのかね。
それはもういいとして、『聖産業週間』。
就活支援の場で、働くということは生きがい云々とか云っている無脳に贈りたい。
高度資本主義社会、誰独り社会の全体構造を把握している人がいない社会で、
この一個人が働く、ということが果たして何の意味を持つ?

そうそう、内向の世代の共通点は、みな作家になる前はサラリーマンだったということ。
サラリーマン作家の元祖として、経済成長期を描いてきた作家たちの問題意識が、
かなり直接的に現代にも生きているというのは、これいかに?

2.8.08

西尾維新を評価しない

註。以下は単なるメモであり、まだ定まった考えではない。
実際、私は西尾維新はおろかライトノベル自体を読んだ経験は皆無だし、
初めて現在読んでいるものも、ライトノベルと文学の相違を明らめようとして
友人から借りたうちの一冊にすぎない。この小説を、仮にAとする。

この小説の特徴としては、「行動」を補助線として用いることが有用である。
文学において言葉はすなわち行動である。
行動は言葉の推論によって導かれ、次の行動=言動へと連なる。
言葉が小説の直接の構造体だからだ。
Aでは行動は決定的に無意味とされ、独白あるいは会話が特権的な位置を占める。
行動は、対話相手を変えるときの場所の移動として用いられる一手法でしかない。
行動が欠如するのと同じくして、言葉が行動へと、あるいは行動が言葉へと移行する流れが中断される。
言葉は行動を指向しない。単に発せられ、しかし現状を説明するためだけのものとしてである。
よって、無意味な言葉はブランド化して、身を固めるファッションとしてしか機能できない。
すでに思考としての言葉は、役目を終えてしまったのだ。

言葉=思考がブランドとなって身にまとわれる、つまり固定化されると、
一般的な概念・観念が言葉=思考の上位に置かれ、物語全体を覆う一神教の神となる。
それをひたすら言い換えつつ垂れ流すだけの役割でしか言葉はなくなる。
消費社会に溢れる紋切り型の切り貼りとしての文体はこれに由来するし、
また、主人公=読者は他の登場人物に出会って話を聞いても、
それは、まだ主人公=読者の知らない情報を提供してくれるだけの存在でしかないのだ。

散見される暴力は行動ではないのか、という意見は、反論にあたらない。
凝り固まった概念の入れ物でしかなくなった言葉が、
論争を不可能にしてしまったからだ。
論争はすぐに暴力となってふるわれる。
登場人物が明晰とされながらも、愚かしいほどに暴力に頼るのは、
一方ではそれが物語のメリハリとして都合がいいからではあろうが、
論争の代替物として機能しているからである。

思考が一般概念に統合されているにも拘らず、論争が存在するということはどういうことか。
論争が思考の弁証法ではなく物語の粗筋でしかないから、というのが正解となろう。
論争しようがしまいが、一般思考がある限りどちらかの誤りは決まっているのであるのだから、
暴力も論争も、単なるストーリーとしての要素でしかないのだ。

思考が統一されている以上、他者性は存在し得ない。
登場人物として主人公=読者と同年代の高校生しか出てこないのは、
高校生一般の言語=思考体系のみが物語を語り、進めることができるためで、
そんな世界では、別の言語を持つ、例えば親や教師のような人物は、
存在は示唆されながらも、草木や建物と同じように沈黙を強要されるのである。

これらの理由により、私は西尾維新を評価しない。
しかしそれは、藝術的・文学的においてであって、
例えば広告的・商業的には、その限りではないということも附記しておく。