31.10.08

大学祭

大学祭のそばの建物の中にいると、
歪んだ楽器演奏が聞こえてきて、
それはまるで、ジョン・レノンの«名曲»であるRevolution 9のようだ。
Revolution 9の再生後6:50経ってからが、近代前・非西洋を彷彿とさせて、好きだ。

革命としての大学祭。
大学祭は何を祀っているのか?
まぁおそらく、福澤諭吉が幼少期にそこらへんで拾った木切れだろう。

29.10.08

『競売ナンバー49の叫び』

これはすごい。掛け値なしにすごい。
名詞と譬喩とストーリーがすべて共鳴して、
見えざるカズー笛協奏曲を奏でている。
でも、奏でられる対象がすっぽりと抜け落ちている。
暗示だけを中心に置きながら、最後まで登場しない。
こう書くとゴドーみたいだけどね。
あ、そうか。ベケットか。
でも、見えないものを書く、ということでデュラスを思い浮かべていた。

ただ、しんどかった。
もう一度読んで解題を試みてみたいのと同じくらい強く、
もう読みたくないという気持ちがある。

27.10.08

歴史小説の誕生

【神話的歴史】
ウィリアム・フォークナー→中上健次、ガブリエル・ガルシア=マルケス

【多重的円環的歴史】
ジェームズ・ジョイス→大江健三郎

【意味充満(歴史)】※歴史は方法論的枠組み
ウンベルト・エーコ→トマス・ピンチョン

【上の三つの複合 あるいは 上の三つへの分化以前】
神話


考察:
分化は、かつてより遥かに多様化した社会を捉えるための想像力的手法か。
注意すべきは、神話の頃は、自然科学は社会科学を内包し、あるいは、
内包されるほどに小さな問題対象であり、
美術や文学や評論ほかすべての藝術は、自然科学の極めてまじめな手法だった。

考察:
歴史は、その一過性ゆえに真偽を判断する決定的な判断基準を提供するが、
その真偽の形成は偶然や気まぐれに拠る。

22.10.08

『闇の子供たち』、ジョット

ともに昨日のメモ。

映画館で『闇の子供たち』を観た。
ドキュメンタリー(風)はやはり即物性なのか。
だが、人間模様も彩られるのはやはり映画(フィクション)か。
衝撃すぎるのは事実だ。

ジョットの美術展に行った。
ルネサンスの緒を開いたとされるが、抜けきらない中世美術との折衷が面白い。
どのようにしてジョット(とその時代)が中世から逃れようともがいたかが
けっこうありありと見えてくる。
まず、先進性から挙げると、
立体感、遠近法へのあからさまな科学的態度。
近世までの画家と科学者を同一視するマクルーハンを思い出した。
人物の表情もかなり豊かで、よく観察して描かれた、
つまり、イコンとしての前例踏襲に走らない意思がわかる。
次に、中世の残滓は、もっとも感じたのは、画面構成。
あるいは、象徴の継承(幼児キリストの手に持つ鶸など)。
これらの硬直化こそが、実は中世だったりする。
人は何から先に前例と前例ととり、何を見逃す(あるいは二の足を踏む)のか、
これを気づくヒントになった。

21.10.08

大江健三郎『万延元年のフットボール』

大江健三郎『万延元年のフットボール』を、ここ三日ほどで読了。
あまりに作品の世界が大きくて重厚なので、嘆息するしかない。
万延元年、敗戦、安保闘争の現代、それぞれが愛媛の小さな山村で絡みあい、
共鳴しあい、新しい歴史をも動かしてゆく。
想像力とは何か、歴史とは何か。
歴史とは、時間軸的に過去を固定されている以上どうしても硬直してしまった、
想像力の残滓である、というような印象を持った。

なお、この作品が自分にとってそれ自体としても非常に面白いのだけれども、
村上春樹のイメージ群のネタ元でもあるので、
『1973年のピンボール』を主に、「鼠」「井戸」「羊」などの意味が
ほどけてゆくところが多々あって、種明かしをされているようで楽しめた。
村上春樹が好きだからといって大江健三郎(や庄司薫も?)を読まずに
卒論などのテーマにするというのは、アホだ、と思った。

『競売ナンバー49の叫び』は目下の読書中ではある。
意味の連なりが、あまりに「ブンガク星」の優等生、という感じ。
どうなんだろうねぇ、もちろんそれはピンチョンの文体であって、
別の作品全体の意図もあるんだけれども。

林京子『祭りの場』を読み始めた。
実は高校生のときに読んでいたが、ほぼ忘れてしまっている。
淡々と、ユーモアさえ絡めて原爆体験を語る、
その乾いた口調が逆に背中に張りつく。

8.10.08

ライトノベルへの提言2、『城』

前回、友人に指摘された事項に対して。
ライトノベルは結局、文学とは無関係である可能性が高い。
理由の第一に、ライトノベルは、文学へのアンチテーゼとしてではなく、
ファンタジー小説の中でもある種の静的な雰囲気を持つ作品への
根強いファンの出現と、それへの出版社の対応によっている、という出自がある。
ライトノベルの世界観が単にその特徴であるというだけではなく
レゾンデートルですらある、という事実は、私にとっても発見だった。
文学ほか藝術一般の目的である表現の解放は、ライトノベルにはあたらない。
つまり、理由の第二として、ライトノベルはむしろ読者にとって眠りのような快楽を
提供することを最大目的としている、ということがある。
大塚英志は、ライトノベルを商業的にも適った文学ジャンルと捉えたが、
(彼はライトノベルに文学性を付加しようと試みさえした)
その誤解のために、ライトノベルは大塚英志を離れていった。

ライトノベルは、つまり、クラシック=前衛音楽に対応する軽音楽のようなもので、
それ自体で独立したジャンルであると考えられるべきだ。
しかし、ライトノベルへの私の苦言は、現代の文学の閉塞感へも直接繋がる、
いや、そもそもは、現代の文学が閉塞しているがために
ライトノベルにまで作品群が連続してしまったという問題意識による。
例えば、各種の文学新人賞、特に文藝賞(と群像新人文学賞)の堕落は目を覆うものがある。
芥川賞にしても、阿部和重は『アメリカの夜』で受賞すべきだった。
後に受賞したとはいえ、十年の間が空き、しかも『ニッポニアニッポン』のような
優れた作品をも、銓衡委員は怠慢にも見逃し続けた。
福永真、青木淳悟などはまだ候補にも挙がっていないのではないか。
新人賞にこだわるのは、この三、四十年の間に、
同人誌という新人作家デビュー経路がほぼ断たれたからに他ならない。

近況。
カフカ『城』を読了。
それでも人は働き続ける、黒井千次の小説のように。
学歴やら自己PRやらをいくら身につけて就職して
雀の涙の給金をもらったところで、
働くということはやはり、『枯木灘』で秋幸の労働が
何度も何度も描かれるような、実感があってこそなのだろう。
さて、カフカが云うように、人間の住む世界の主体は、
個人ではなく、社会である。
言語の基本単位が単語ではなく文である、と指摘したフレーゲの
コペルニクス的転回を思い起こさせる指摘だ。
ではなぜ現代社会では個人やら個性やらが尊重されるのかって?
そのほうが経済効果だからにすぎない。
さて、社会の複雑系的様相を考えて、
次に読み始める作品は、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』。
『城』では副次的だった「陰謀」という問題が、ここでは主題となる。

2.10.08

記号の戯れ あるいは、ライトノベルへの提言

ライトノベルの現状と問題点

ライトノベルは単なる記号の戯れにすぎない。
ライトノベルにおいて好まれる記号は、以下のとおり:
しらけ(冷め)、暴力、(非対称の対義語としての)対称性、閉鎖空間、非=没我。
これらの複合がライトノベルの本質であり、
ライトノベルとして読まれる全作品の形態であると考える。

登場人物は常に冷静で、行為は常に正しい。
対称性は、他者不在とも換言で着る。
登場人物はみなそれぞれの領分を持ち、「空気が読めている」。
たとえ他者が登場しようとも、
それは非対称的な他者として作品に深みを持たせることはなく、
対称性として、分かりやすく言うなら「悪」として、
作品世界の裏返しとして取り込まれるためのものである。
これらは、主人公が作品内で特権的地位を与えられているからだ。
全登場人物は、主人公を軸として周囲におかれている。
主軸である主人公は、その絶対性ゆえに内省・自己批判を必要としない。
これらを成り立たせているのが、作品世界という閉鎖空間だ。

ライトノベルにおける暴力とは、読者サービスのための不要な装飾品である。
かっこつけとしての白けも同様で、本来は不要だが、
主人公を頂点とする作品世界の絶対性に支えられ、
読んでいて心地よい全能性を強調するために、付与されるのであろう。

記号の戯れである所以は、この主人公を頂点とする絶対性である。
主人公に属するあらゆるものは、吟味されることを免れて正しいとされる。
一方、物語とは、何かを問題にして語るというプロセスであるが、
作品世界内ですべての価値判断が済んでいる状態では、何をも問題化できない。
よって、記号は終始、形を変えずに戯れ続けざるを得ないのだ。


ライトノベルはいかに文学性を獲得するか

ライトノベルが文学性を確保するためにはいかにすべきか。
ライトノベルは、最初に挙げた諸要素によって満たされるので、
基本的には文学との関連はない。
しかし、文学の指向をライトノベルに適用すればいいのではないかと私は考える。
それは、模倣と破壊である。
ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、
騎士道文学を模倣することによって、それを内部から破壊することに成功した。

ライトノベルの行く末は、二通り考えられる。
一つ目は、ライトノベルの形態が変容した場合。
これは、私が上に挙げて予想したような文学性獲得や、
あるいは、非常に斬新な手法によって、ライトノベルが現在の枠組みを捨てた場合。
ライトノベルは止揚することで、延命されることになる。
ただし、それが読者に受け入れられるか否かは全くの別問題。
二つ目は、ライトノベルが変容しなかった場合。
ライトノベルは、絶対的自我に支えられた、非常に現代的潮流にあったジャンルなので、
大部分の漫画のように、時代を越えられぬまま、時の忘却に遭うだろう。
黙示文学、騎士道文学、私小説、などのように、
文学史にのみその名を留めることになる。


ライトノベルからみて文学とは何か

ライトノベルを反面教師として、文学の可能性を考えることは有用である。
文章によるという形態、商業性、時代性などは共通しているからだ。
しかし、これは今後の課題としたい。


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私の云いたいことを要約すると、こうだ:
『キノの旅』がつまらなすぎる。