31.1.09

吹雪をやりすごす読書と映画鑑賞 『海辺のポーリーヌ』『新宗教 その行動と思想』『パビリオン山椒魚』


エリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』
(« Pauline à la plage » d'Éric Rohmer )

やっぱり追求すると愛って摑めないものなんだねぇ。
今の自分の境遇に、ほんのちょっとした慰めになったような気がする。
それにしても、軽々と大それたことを見せつけてくるね、ロメールは。
小津安二郎に妖艶さを溶かし込んだ感じか。
海がなんともいえず良い。
中沢けいの『海を感じる時』と同じような、
未熟な、世界の端にあって、何か魅了される、そんな海。


村上重良『新宗教 その行動と思想』

明治前後から戦後にかけて林立した新興宗教は数知れないが、
天理教、金光教、PL、立正佼成会、創価学会などよく知られたものを
その成立、宗教観と、駆け足ながら要点を押さえて概説したもの。
たいていどの国でも信仰の自由は保障されているが、
なぜ日本において、このような比類ない宗教の多さがみられるのか、
概説ではあるがその理由がおぼろげながら見えてくる。
(メモ、考察)
・明治政府の国家神道体制に乗っかる形で
 新興宗教の多くは萌芽・揺籃期を経た後、
 教派神道と認められることで、政府からの弾圧を防いだ。
 これは、明治政府の国家神道体制が、
 実質は宗教国家でありながらも、
 「神道は宗教ではない」と建前づけられたものであった、という
 背反する二面性の隙間をつくようなものである。
 斜陽期・安定期に右傾化を経る事例が多いのは、
 宗教であるのに権威を得られぬため、
 不足分を国家権力から「注入」しようとしてか。
・新興宗教を弾圧する際に不敬罪を立ててしまうと、
 国会神道との教義のぶつけ合いが
 天皇の正統性の相対化へと帰着する恐れがあった。
 それを防ぐため、あえて精神病ということで
 不問に附す、というやり方で水に流すこともあった。
 (『狂気と王権』の主張に合致)
・新興宗教に神道系や仏教系などネタ元があるのは、
 教祖の宗教観が、堀一郎のいう「民間信仰」に育まれるからと考えてよい。
・法華系の新宗教は、日蓮そのものが先鋭的かつ排他的だった伝統をふむ。
・創価学会の思想の特徴は、「価値観の優劣」「民主主義と相容れない中世的政治観」。
 「公利=善」であるから、公利は価値の最上級に位置づけられる。
 「創価」の名の示すとおり、公利の規定は創価学会の私釈にゆだねられる。
 つまり、信者の価値観、生き方が創価学会本位となる。


冨永昌敬『パビリオン山椒魚』

何なんでしょう。いや、むしろ、どれなんでしょう。
自分は阿部和重『ニッポニアニッポン』みたいな、
中心人物がぽっかり空いちゃってる日本風刺を観た。
いいでしょう、山椒魚がタイトルでもあって、ど真ん中にいるんだから。
でも、それだけじゃない。もっといろいろある。
もう一度、時間をあけて観たい作品。

30.1.09

『ナイスの森〜The First Contact〜』


初め、意味が分からずに観るの止めよかなとも思ったが、良かった。
訳がわからないけれども、みんな関わり合えるんだよ、という
明るさが前面に出ていて、しかし、
そんなことない、という現実的な反駁も、
滑稽さのオブラートに包まれながらしっかりと出ている。
もちろん、シュール。でも、何かを伝えるってことはすでにシュール。
『茶の味』の断絶と間はしっかり継承され、作品の空気感に根づいているが、
その生々しい現実に、新しい方向性を示そうとしたように思えた。

28.1.09

堤幸彦『包帯クラブ』


青春群像劇ってかんじで、まぁ、そんな感じの映画。
傷ついたときの場所を包帯で手当てする、っていう
そんな優しい譬喩が、心地よかった。
もし自分がしてもらえたら、掛け値なしに嬉しいと思うだろう。

27.1.09

ジャン・ジュネ「女中たち」、日端康雄『都市計画の世界史』


「女中たち」
倒錯なのか、劇化なのか。
意味に縛られているのか、意味から解かれた行く末なのか。
わからない。これはすごい。

『都市計画の世界史』
地図上に示されるがごとく、点であることに都市の特質はある。
点が周囲を支配し、生産を喰い尽くす。
集落がどうやって都市となり、秩序が守られるのか。
興味深かったが、政策と失敗(と成功)の単なるシーソーゲームの歴史、
という感じがしてしまったのが、都市を都市としてのみ考察する
(しかも新書一冊分で)ことの不可能性だから?

26.1.09

fin d'amour

Nous avons rompu.
待ち人と別れた。

考えがいろいろわかったけれど、同意できなかった。
私の幼さを彼女は我慢できなかったし、
彼女の割り切り方の華麗さが私には冷酷すぎた。
それだけのことなのにこんなに時間がかかったと、
彼女なら託っているかもしれない。
でも、残るものはきっとある。
何もないならそこから出発できないまま、
過ごしたのと同じ時間の穴を埋める苦痛を
忍ばなければならないだろうから。
でも、自分は今回、意外にも割り切れそうだ。
いろいろなものを得たからだと思う。

20.1.09

「夢ん中で人殺して罪になるか? こんなクソ東京、全部夢だよ」 塚本晋也『BulletBallet』

『TOKYO!』という映画、観てはいないがおそらく、
TokyoをParisの巨大版だと勘違いした映画だ。
東京は、もっと無秩序で、一つの有機物で、
大友克洋『AKIRA』で描かれるネオ・トーキョーは
東京湾に浮かぶ不気味な臓器のようだが、
現実の東京はまさにそうだ。
それは巨大になりすぎて黒々したものを吐き出しながら
まだ喰うのをやめない顔ナシ。
実際、埼玉県の中心は池袋にあり、
横浜と川崎の田園都市線沿線部は渋谷が統べ、
そもそも横浜は明治に拵えられた、江戸と日本の要港機能でしかない。
浸食はいや増し、茨城にも栃木にも山梨にも都民は増殖する。
そして、県民を「千葉原人」などと蔑むことで
地方色の欠落を特長のように見せ、人をおびき寄せる。
皇居が東京の抱えるvideなら、東京は日本の抱えるブラックホールだ。

アメリカの湯水のような消費によって成り立ってきた
マネーゲーム経済がサブプライムローン問題によって破綻しても、
当のアメリカを笑うことはできない。
アメリカとは世界の消費を担う首都、東京とは日本の消費を担う首都。
もっとも東京には、一極集中による税収入独占というカラクリがあるから
破綻せずに不気味に膨張し続ける。

夢から醒めるのはいつになるのか?
すでに気息奄々の地方がとうとう破綻するとき?



(注)これは、東京批判ではなくて映画批評です。

14.1.09

理論と現実の狭間 フェルナン・ブローデル『交換のはたらき 1』

代表的なアナール学派歴史学者の一人である
Fernand Braudelの « Les Jeux de l'Échange » の上巻の邦訳。
ヨーロッパが中心だが、イスラム世界、インド、中国や日本の東アジア圏、
そして時代が下るにつれアメリカ、アフリカの植民地が俎上に置かれ、
交換が商業、産業にまで変化してゆく社会史の流れが細かく描かれる。

グローバル化という言葉がいかにアルカイックであることかがよくわかる。
世界は何世紀も前からグローバルに動いていた。
国や出自に関係なく、商人は価格の差(利潤)を求めて世界中をこぎ回る。
13世紀にイタリアで出現した預かり証が貨幣代わりの手形となり、
仕入れ地で資金を調達するために不可欠となった。
商人は地中海を出てトルコやインドや中国を経由して東行し、
京都でもものを売り、仕入れていったのである。
幕藩体制下で鎖国する日本でさえ、グローバル下という状況は同じである。
出島や朝鮮通信使だけが、国外に開かれた小さな窓であったとしても、
閉ざすものでありかつ経路でもある海を通じて貿易は行われていたし、
産出した金や銀は、貨幣や賃銀となって世界中に散らばった。

まるでフラクタルを見ているようだった。
パリを中心にイル・ド・フランスの町村との生産-消費関係ができ、
都市・主要港間でも分業が成立して主従関係がみえてくるからだ。
たとえばリカードの比較生産費説がそこから見出だされるが、
固定した枠組みとしてではなく、必然的にそうなって
しかも崩れつつ変化してゆくものとして提示されているから、
制度学派みたいな考え方だって見出せるのだ。
あるがままに見て、謙虚にまとめてゆく感じ。
だから提唱する概念「世界-経済 économie-monde」も
あまりに理論じみた強固なものではない。

ヘーゲル的な発展は、しかし、第2巻初めに退けられる。
マニュファクチュアから工場へという「発展的」推移は、
決して必然的ではないというからだ。
この断絶を偶然かなにかで乗り越えたヨーロッパでは産業革命が起こり、
乗り越える機会のなかった日本を含めアジアが、
後にそれを模倣することになったというのは、ここにあると思われる。
もっとも、ここからのことを語る第2巻に入ったばかりだから、
これから読み進めてゆくのが楽しみだ。

10.1.09

山口昌男『道化の民俗学』

アルレッキーノ(ハーレクイン、アルルカン)、ヘルメス、エシュ、クリシュナ、
これらトリックスターたちを個別に分析する詳細さにもかかわらず、
立ち現れてくる役割が、なんという類似に貫かれていることか。
彼らは権力を徹底的に相対化しそこから逃れながらも権力を有し、
意味をずらしながら無限の意味を振りまき、文化を生み出す。
そして中心は周縁となり、老人と子供が合一し、汚物は恵みとなり、
王は嘲笑を受けながら殺され、時空は軽く飛び越えられるのだ。
創造とは「ずらし」のことであり、
異端が中心に置かれたマツリゴト(政)こそ権力構造。

まさに、莫迦と天才は紙一重。
間に挟まれたるは、目盛りに閉じ込められて正規分布状に配された凡庸ども。

ラスコーリニコフは端にいたかもしれないが、やはり尺度を超えられなかった。
そして……人類が二元論を超えるというのは、夢のまた夢なのだろうか。

7.1.09

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』

マルクス主義とは、マルクス誤解の総体である。──ミッシェル・アンリ

マルクスについての論ではあるが、全然「いわゆるマルクス」っぽさなんてない。
あるのは純度の高い哲学。マルクスとソシュールとヴァレリーとニーチェと……が、
貨幣、言語、藝術、道徳、という別々のものを語りながら、
実際には、概念と差異を超えるために同じことを考えていた……ということが語られる。
唯物史観と階級闘争がマルクスであるという固定観念を、マルクスそのものが覆すという、
痛快とも皮肉ともいえる試みこそが、この論文の醍醐味かもしれない。
唯物史観なんて、マルクスは一言も云っていないんだとさ!