Fernand Braudelの « Les Jeux de l'Échange » の上巻の邦訳。
ヨーロッパが中心だが、イスラム世界、インド、中国や日本の東アジア圏、
そして時代が下るにつれアメリカ、アフリカの植民地が俎上に置かれ、
交換が商業、産業にまで変化してゆく社会史の流れが細かく描かれる。
グローバル化という言葉がいかにアルカイックであることかがよくわかる。
世界は何世紀も前からグローバルに動いていた。
国や出自に関係なく、商人は価格の差(利潤)を求めて世界中をこぎ回る。
13世紀にイタリアで出現した預かり証が貨幣代わりの手形となり、
仕入れ地で資金を調達するために不可欠となった。
商人は地中海を出てトルコやインドや中国を経由して東行し、
京都でもものを売り、仕入れていったのである。
幕藩体制下で鎖国する日本でさえ、グローバル下という状況は同じである。
出島や朝鮮通信使だけが、国外に開かれた小さな窓であったとしても、
閉ざすものでありかつ経路でもある海を通じて貿易は行われていたし、
産出した金や銀は、貨幣や賃銀となって世界中に散らばった。
まるでフラクタルを見ているようだった。
パリを中心にイル・ド・フランスの町村との生産-消費関係ができ、
都市・主要港間でも分業が成立して主従関係がみえてくるからだ。
たとえばリカードの比較生産費説がそこから見出だされるが、
固定した枠組みとしてではなく、必然的にそうなって
しかも崩れつつ変化してゆくものとして提示されているから、
制度学派みたいな考え方だって見出せるのだ。
あるがままに見て、謙虚にまとめてゆく感じ。
だから提唱する概念「世界-経済 économie-monde」も
あまりに理論じみた強固なものではない。
ヘーゲル的な発展は、しかし、第2巻初めに退けられる。
マニュファクチュアから工場へという「発展的」推移は、
決して必然的ではないというからだ。
この断絶を偶然かなにかで乗り越えたヨーロッパでは産業革命が起こり、
乗り越える機会のなかった日本を含めアジアが、
後にそれを模倣することになったというのは、ここにあると思われる。
もっとも、ここからのことを語る第2巻に入ったばかりだから、
これから読み進めてゆくのが楽しみだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿