26.7.09

こんな時代

こんな時代に生まれました。 ──上松秀実

高橋和巳、庄司薫、大江健三郎、三田誠広のような世代論がないのが
我々、1980年後半生まれの特徴かもしれない。
四十年代前半には戦争文学、後半から五十年代にかけては戦後派、
六十年代には第三の新人、内向の世代、と続いて……それから何があった?
Jブンガク? それは世代関係ないよね?
私は密かに、我々の年代の代弁者たる文学は枯渇していて、
残念な綿矢りさとか、よくて金原ひとみとか、その程度しか文学史に時代を残せないまま
死んでしまうかもしれない、と、死後の世界を恐れるような漠々たる危惧を感じている。
(羽田圭介? ハッ。)
もちろん、我々を昭和最終期とか平成生まれとかいうのはおかしい。
昭和は実際的には1970年代あたりで終焉しているし、
1980年代後半生まれと平成(1990年)生まれとの間に、決定的な違いはないからだ
(いわゆるゆとり世代との峻然だる境界を見出すならその間かもしれないが、
 極論するなら、ゆとり世代は、隔週週休二日制を経験した我々をも含みうる)。
むしろ、平成という年号は、かつてないほど軽く受け止められてきたし、
バブル後の不況から現在までの、日本経済の成長幻想からの後味ばかり悪い寝覚めと
同一のものとして使用されてきた。

あ、もうやめよう。イオンで買った安い白ワインを呑みながらの徒然な文章なんて。
でも、白ワインをなめんなよ。
私はこれでも県番号67のアルザシアン、ストラスブルジョワなのだから。
基督の精液を一瓶分、たった今飲み干したる私なのだから。

上記、上松秀実の出身の佐渡に行こうとして、結局天候が悪くて行けんかった。
しかし、新潟は私の日本観に静かに影響を与えたように思う。
例えば、関東平野を差し置くような広い平野を実感したし、
行政区画(市町村)の、実情を無視した横暴たる拡大、など。
なぁ、財政が厳しいからって市町村合併を促進するなんて、
M&Aの下剋上を国が支援するのと同じことじゃないのかい?

サラマーゴ『あらゆる名前』、猪野健治『やくざと日本人』/選挙前の雑感

・サラマーゴ『あらゆる名前』

サラマーゴは仮想現実的、思考実験的な舞台を作図し、
ボルヘスはメタ小説、虚構を材に取ったジャーナリズムである。
そして、ボルヘスの『バベルの図書館』とサラマーゴの『あらゆる名前』は
完全に交叉しているように思った。
『バベルの図書館』は文学の極北だと思う。
この万能知から出発して文学を生き生きと蘇らせることができるか、
これが現代文学の重要な一課題だと。
日本文学では、庄司薫が『白鳥の歌なんか聞こえない』で、
そして初期の村上春樹が消極的にこの問題に真っ向から取り組んだ。
だが、それはやはり、お手上げ、という結論が仄めいてはいなかったか。
サラマーゴは、辛うじて人間が主体性を維持できていると表明した。
だが、それは情報社会がITからICTへ着々と推移する現代社会にも通用するのだろうか。


・猪野健治『やくざと日本人』

「そんな物騒な題材の本を読んで」と嫌悪した者を、私は嫌悪する。
これはやくざの社会史であって、やくざを通して視た日本社会・政治史だ。
大枠には、やくざは地元ののし上がり的な名士だった。
港湾や炭坑といった警察力の届かない領域を実行支配した裏の警察力だから、
悪とすれば必要不可欠な悪だった。
帝国議会の衆議院が単なる地方地方のお山の大将の寄せ集めに過ぎなかったのと
全く同じ理由で、戦前なら政友会や民政党とやくざは当然のように癒着するし、
跡を継いで戦後は自民党との癒着が政治史に見え隠れするやくざの存在は、
ルソーのいう特殊意志に雁字搦めになった議会制民主主義の調整役だった。
そして東京五輪の時期に頂上作戦によって一気に勢力を殺がれて市民の理解を失ってから、
アジア系裏社会と対立しつつさらに見えない地下へ潜ってゆく。
日本における権力とは何か、という現実を視る上で、これほどの名著はない。
近づく総選挙の投票先の参考にするという意味で、特に自民支持層には読んでほしい。
その上で、「自民のいう『経済政策』の実態は何なのか」を考えてほしい。

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最近の雑感として、自民党と公明党はもはやどう違うのかがわからない。
もちろん支持母体や成り立ちは違うが、やっていることや協力の親密さという実態の部分で
自民党と公明党にどれだけの差異があるだろうか。

加えて、上の『やくざと日本人』にちらと出てきた
「戦後の保守の流れには、吉田と鳩山の二大勢力が原則としてあった」という指摘。
民主党はその意味でも、小沢の後釜に鳩山を据えるべきではなかった。
麻生(吉田茂の孫)vs鳩山では、五十五年体制は異様な再現度を保って持続しているし、
民主党は社民党と接近しているとはいえ中枢は依然として保守であって、
決して海外の新聞で短絡に附記されるように中道左派の政党ではないからだ。
もちろん、利権維持のためでしかない保守よりは民主党のほうがはるかにマシだが、
長期的に民主党が政権を維持しては、再び自民党の亜種が出来上がるだけだ。
だから今回の選挙では民主党の首に縄をかけておく意味を込めて
社民党が伸びてくれることを希うのが、戦略的に正しいのかもしれない。

17.7.09

一ヶ月半

初めより全き気の一致を覚うる人すらなほ後に別る、況んや然らぬ人に於てをや。
というわけで、別れました。

14.7.09

黒沢清『トウキョウソナタ』

本当に黒沢清の映画作品? という大いなる疑問。
我慢して世間の目線に合わせて撮ったような違和感が、
違和感というよりむしろ妥協?を感じてしまったのだけれども。
クロキヨならもっと謎を提起して欲しい。
なんか、中途半端に解けている。これではどうなのか。

12.7.09

鎌倉の名刹を過ぎ海に出る

北鎌倉駅に降りた。
円覚寺へは駅下車徒歩五分とかからない。
その唐様の舎利殿で名高い。
しかし、臨済宗の日本に導入された経緯を鑑みるとむしろ、
唐様をおいて他があり得ないと知れる。
さらには、唐「様」として日本化されるところに、
日本の風土の一般形を感じる。

鎌倉時代・室町時代の新しい大陸との結びつきとして禅宗が機能したことは、
建長寺が明らかに中国の影響を受けた様式であることから、容易に見て取れた。
もう一つの日本の首都だった京都に対抗して
文明の先進性を確保しようという執権の意図は、
後に院政にも踏襲された。

一つ一つの建物、庭園がでかい。敷地も広い。平地の少ない北鎌倉にもかからわず。
これも京都の仏教への対抗心なのだろうか。

扇ガ谷の切り通しを抜け、小寺院の脇を抜けて、横須賀線に平行するように南下。
初め、次に来たときのために帰浜しようと思っていたが、
さほど海までは遠くないらしかったので、さらに南下して由比ケ浜へ。
五時を過ぎても明るい空と海を前に、ゆっくりしようかとも思ったが、
人の多さに辟易して切り上げて、再び鎌倉駅へ。
そこから帰浜。

5.7.09

毒は吾にとって地の塩

不安なる今日の始まりミキサーの中ずたずたの人参廻る  塚本邦雄

所在ない孤独は不健康に過ぎる。空梅雨の曇り空は気軽な外出をも許さない。
書を捨てることも街に出ることもできず、狭い部屋をうろうろする。
恐ろしいことに、この退屈のなか時間は幾時間も飛び去るのだ。

今日したことに特別なことは何もない。
そういえば、夕、フライパンでおびただしい数の豆鯵を熱した。
木べらで掻き回すと、みなやすやすと破れ、引き千切れた。
さらに無惨に、醤油と味噌を注いでこねくり回した。
魚たちは潰されて泥のようになった。
このおもちゃにされた屍骸を、私は弁当箱に詰める。
明日の昼に玄米とともに饗されるだろう。

残忍? 否、さのみにあらず。
今日、贄と化した鯵とほぼ同数が、冷蔵庫で次回を待っている。

ミシュレ『魔女』

中世、権力と結びついて世界を停滞させたキリスト教から
いかにして科学は萌芽したか。
信仰を司る役割を牛耳った聖職者たちが、
庶民の盲目的な信仰をいかに都合良く切り売りしたか。

ラテン語とロマンス諸語との分離が象徴するような
理論と現実の乖離を放置した結果なのか、
教義、理論、伝承の巨大な複合体と化したために
至るところに聖への落とし穴が開いたためか。

魔女および魔女裁判とは、現代アメリカのパラノイア的病理との
重なりを見出さざるを得なかった。
一つの風潮、一つの世論、一つの判断基準が絶対的に人々に君臨し、
逸脱を許さないまま廻転してゆく。
そして逸脱はほんの些細なところにも適用され、
万人が疑心暗鬼を生じる過程。
逸脱者への恐怖の助長と、基準の厳格化の、無限ループ。