・サラマーゴ『あらゆる名前』
サラマーゴは仮想現実的、思考実験的な舞台を作図し、
ボルヘスはメタ小説、虚構を材に取ったジャーナリズムである。
そして、ボルヘスの『バベルの図書館』とサラマーゴの『あらゆる名前』は
完全に交叉しているように思った。
『バベルの図書館』は文学の極北だと思う。
この万能知から出発して文学を生き生きと蘇らせることができるか、
これが現代文学の重要な一課題だと。
日本文学では、庄司薫が『白鳥の歌なんか聞こえない』で、
そして初期の村上春樹が消極的にこの問題に真っ向から取り組んだ。
だが、それはやはり、お手上げ、という結論が仄めいてはいなかったか。
サラマーゴは、辛うじて人間が主体性を維持できていると表明した。
だが、それは情報社会がITからICTへ着々と推移する現代社会にも通用するのだろうか。
・猪野健治『やくざと日本人』
「そんな物騒な題材の本を読んで」と嫌悪した者を、私は嫌悪する。
これはやくざの社会史であって、やくざを通して視た日本社会・政治史だ。
大枠には、やくざは地元ののし上がり的な名士だった。
港湾や炭坑といった警察力の届かない領域を実行支配した裏の警察力だから、
悪とすれば必要不可欠な悪だった。
帝国議会の衆議院が単なる地方地方のお山の大将の寄せ集めに過ぎなかったのと
全く同じ理由で、戦前なら政友会や民政党とやくざは当然のように癒着するし、
跡を継いで戦後は自民党との癒着が政治史に見え隠れするやくざの存在は、
ルソーのいう特殊意志に雁字搦めになった議会制民主主義の調整役だった。
そして東京五輪の時期に頂上作戦によって一気に勢力を殺がれて市民の理解を失ってから、
アジア系裏社会と対立しつつさらに見えない地下へ潜ってゆく。
日本における権力とは何か、という現実を視る上で、これほどの名著はない。
近づく総選挙の投票先の参考にするという意味で、特に自民支持層には読んでほしい。
その上で、「自民のいう『経済政策』の実態は何なのか」を考えてほしい。
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最近の雑感として、自民党と公明党はもはやどう違うのかがわからない。
もちろん支持母体や成り立ちは違うが、やっていることや協力の親密さという実態の部分で
自民党と公明党にどれだけの差異があるだろうか。
加えて、上の『やくざと日本人』にちらと出てきた
「戦後の保守の流れには、吉田と鳩山の二大勢力が原則としてあった」という指摘。
民主党はその意味でも、小沢の後釜に鳩山を据えるべきではなかった。
麻生(吉田茂の孫)vs鳩山では、五十五年体制は異様な再現度を保って持続しているし、
民主党は社民党と接近しているとはいえ中枢は依然として保守であって、
決して海外の新聞で短絡に附記されるように中道左派の政党ではないからだ。
もちろん、利権維持のためでしかない保守よりは民主党のほうがはるかにマシだが、
長期的に民主党が政権を維持しては、再び自民党の亜種が出来上がるだけだ。
だから今回の選挙では民主党の首に縄をかけておく意味を込めて
社民党が伸びてくれることを希うのが、戦略的に正しいのかもしれない。
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