こんな時代に生まれました。 ──上松秀実
高橋和巳、庄司薫、大江健三郎、三田誠広のような世代論がないのが
我々、1980年後半生まれの特徴かもしれない。
四十年代前半には戦争文学、後半から五十年代にかけては戦後派、
六十年代には第三の新人、内向の世代、と続いて……それから何があった?
Jブンガク? それは世代関係ないよね?
私は密かに、我々の年代の代弁者たる文学は枯渇していて、
残念な綿矢りさとか、よくて金原ひとみとか、その程度しか文学史に時代を残せないまま
死んでしまうかもしれない、と、死後の世界を恐れるような漠々たる危惧を感じている。
(羽田圭介? ハッ。)
もちろん、我々を昭和最終期とか平成生まれとかいうのはおかしい。
昭和は実際的には1970年代あたりで終焉しているし、
1980年代後半生まれと平成(1990年)生まれとの間に、決定的な違いはないからだ
(いわゆるゆとり世代との峻然だる境界を見出すならその間かもしれないが、
極論するなら、ゆとり世代は、隔週週休二日制を経験した我々をも含みうる)。
むしろ、平成という年号は、かつてないほど軽く受け止められてきたし、
バブル後の不況から現在までの、日本経済の成長幻想からの後味ばかり悪い寝覚めと
同一のものとして使用されてきた。
あ、もうやめよう。イオンで買った安い白ワインを呑みながらの徒然な文章なんて。
でも、白ワインをなめんなよ。
私はこれでも県番号67のアルザシアン、ストラスブルジョワなのだから。
基督の精液を一瓶分、たった今飲み干したる私なのだから。
上記、上松秀実の出身の佐渡に行こうとして、結局天候が悪くて行けんかった。
しかし、新潟は私の日本観に静かに影響を与えたように思う。
例えば、関東平野を差し置くような広い平野を実感したし、
行政区画(市町村)の、実情を無視した横暴たる拡大、など。
なぁ、財政が厳しいからって市町村合併を促進するなんて、
M&Aの下剋上を国が支援するのと同じことじゃないのかい?
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