十時半、逗子駅に停まった電車から降立った人々は、
みなサンダルであり、すぐに脱いで水着になれる恰好で
歩いていた。その流れは海へと繋がれていて、
楽しそうにしゃべりながら足を進めていた。
浜は人ごみだった。
頭の空っぽな楽しさが間延びしたような陽気さだった。
海は綺麗なのにヨットや水上バイクで渋滞していた。
靴の私は浜沿いの国道を歩き、平べったい楽園を遠ざかった。
山道に入る。鬱蒼とした草木の緑が、途端に海を覆い隠す。
ただ登る。足を取られそうなぬかるみ、半ば崩れた階段も。
蝉や虫の声の奥に追いやられて、水上バイクの騒音は依然聞こえる。
だがそれもゆっくり遠ざかり、突如、披露山公園に出ている。
葉山から江ノ島まで、湘南が一望できる。
海も空も、ぼかしたような締まらない色をどこまでも拡げている。
少しだけ色の濃い海のところどころに、ヨットとその引いた波がある。
富士山も見えるらしいが、夏の午は霞んだ江ノ島で充分。
披露山庭園住宅はどの家も庭も広大で、手入れの欠けたところがない。
道も広く電線はない。歩いても歩いても景色が進まない。
ようやく出ると家々の間隔がぐっと狭くなり、見慣れた宅地に戻る。
その間を縫う細い道を、小坪マリーナへと下る。
小坪マリーナは川端康成の自殺した地として有名。
材木座海岸を通っても観光一色の海だから、名越切通しに向かう。
時間の死んだような道路をひたすら汗を拭って歩く。
ロードバイクが幾台も、海を目指して駆け下りてゆく。
再び近づく山の緑。道路を逸れて階段を上り、山道に入る。
名越切通しは鎌倉七口の一、名は「難越」に由来するという。
岩盤に細い道を貫いただけの無骨なその姿は、いかにも切通しという趣き。
鎌倉がいかに地の利を防御に用いた設計か、大いに実感できる。
草が顔を撫で、虫が無数に飛び交い、晴天続きなのにぬかるみに靴をとられる。
曼荼羅堂跡への道は、落書き等が絶えないらしく塞がれていた。
岩盤に刳り貫いた横穴に、石塔や地蔵が置かれ、異様な雰囲気なのだという。
鎌倉の果ての境目にして、彼岸と此岸の境目だったのだという。
再び陽の下に姿をさらせば、すでに鎌倉市に入っている。
さっき抜けた山を、トンネルが横須賀線を通している。
山際の田舎の景色を、人を満載した鉄道が揺さぶる。
行けば、日蓮宗の寺が二つある。長勝寺と安国論寺。
ナショナリズムとしての仏教を立てて他宗排斥に臨んだタカ派宗派の色が、
偶像の明示と、比較的派手な様式にも表れているように感じた。
日蓮を皇国史観から紹介した1941年設置の碑さえ、安国論寺の門前に残る。
このタカ派さが、創価学会や立正佼成会といった日蓮宗系新興宗教の多さかもしれぬ。
あとはただ鎌倉駅へ向けて歩き、帰宅した。
22.8.09
是枝裕和『花よりもなほ』/夏の夜の音
是枝裕和『花よりもなほ』
おもしろい映画だった。結末もよかった。うまく紡がれて廻った感じ。
でも、親の仇、戦死した父親、太平の世の武士という自家撞着的存在、etc.、etc.…。
人はそんなにも過去に落とし前をつけないといけないものかね。
ねじ曲がった過去を正していけば、おのずとストーリーになるんだろうけど。
でも、こんなことを云っては、かなり多くの物語に茶々を入れてしまうなぁ……。
自分は、ただがむしゃらに、やり過ごすようにして時を生きてきたから、
ひとたび昔を振り返れば、過去はまるで
手のつけられなくなった不法投棄のように、山をなしている。
結ばれなかった許嫁、というのも出てくるが、
人は実際にはそんなにねちっこくないと思う。経験上。
心底から頼った掌を返されること数知れず。
その落下経験の多さは、私を打たれ強くするのではなく、
掌を頼ることそのものを忌避させるようになった。
最近、ドライだと云われる。自分でもそう思う。
所詮は表面の付き合いだから、湿けている必要を感じない。
茨木のり子だったと記憶しているが、
「乾いた感受性を人のせいにするな」みたいな詩があった。
何だよその精神論は、と、今は思う。
------
私の家は、丘の登り坂が勾配を次第に急に傾ける中腹にあり、
夏でも夜は涼風が窓から入り、対面の窓から抜ける。
窓の外、木々と下草の風に揺れるあたりは、夜なので漆黒の闇だが、
そこからスズムシの鳴き声がやわらかく響いてくる。
ときどき遠い踏切の警報音が混じり、
このとき耳を凝らせば、電車が線路を駆ける音が仄聞こえる。
おもしろい映画だった。結末もよかった。うまく紡がれて廻った感じ。
でも、親の仇、戦死した父親、太平の世の武士という自家撞着的存在、etc.、etc.…。
人はそんなにも過去に落とし前をつけないといけないものかね。
ねじ曲がった過去を正していけば、おのずとストーリーになるんだろうけど。
でも、こんなことを云っては、かなり多くの物語に茶々を入れてしまうなぁ……。
自分は、ただがむしゃらに、やり過ごすようにして時を生きてきたから、
ひとたび昔を振り返れば、過去はまるで
手のつけられなくなった不法投棄のように、山をなしている。
結ばれなかった許嫁、というのも出てくるが、
人は実際にはそんなにねちっこくないと思う。経験上。
心底から頼った掌を返されること数知れず。
その落下経験の多さは、私を打たれ強くするのではなく、
掌を頼ることそのものを忌避させるようになった。
最近、ドライだと云われる。自分でもそう思う。
所詮は表面の付き合いだから、湿けている必要を感じない。
茨木のり子だったと記憶しているが、
「乾いた感受性を人のせいにするな」みたいな詩があった。
何だよその精神論は、と、今は思う。
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私の家は、丘の登り坂が勾配を次第に急に傾ける中腹にあり、
夏でも夜は涼風が窓から入り、対面の窓から抜ける。
窓の外、木々と下草の風に揺れるあたりは、夜なので漆黒の闇だが、
そこからスズムシの鳴き声がやわらかく響いてくる。
ときどき遠い踏切の警報音が混じり、
このとき耳を凝らせば、電車が線路を駆ける音が仄聞こえる。
21.8.09
塚本邦雄『定家百首』、ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
・塚本邦雄『定家百首』
しばしば技巧的に過ぎるといわれる新古今の、
代表歌人である藤原定家。
その名歌の百首を編んで訳と解説を附した著作。
打ち消しの美学と余韻、現実ではなくイデア世界の描写、
時間推移までも読み込む言葉択び、などなど、
和歌に明るくない自分でもはっとするような和歌ばかりで、
800年前の和の繊細さ・藝術性に驚かされた。
・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
人は外部に規定される。
「学校」があるから生徒を演じ、「恋」があるから恋人を演じる。
そんな、普通の捉えられ方からの顛倒に人間の本質を見るのは、
経験主義ではヒュームの「知覚の束」であったり
サルトルの「l'être d'autrui」だったりする。
……とまぁ、そんな固い話は措いておいて、
『フェルディドゥルケ』は、うまいこと場の空気にあわせようとして
頑張るんだけど、やっぱり居心地が悪くて暴れちゃう、みたいな話。
それは「恋」に至ってすらそうだ。
恋する気持はしあわせの一語に尽きるということを知っていたので、幸せだった。
となってしまう。「恋をしていたので幸せだった」のではない。
恋をする者に幸せを強いるような暗黙の了解が至るところにあって、
主人公だけがそこを抜け出そうとしてもがき苦しみ続ける。
主体ってどこよ? そんな哲学的な主題を
グロテスクにパロディ化した小説として、自分は読んだ。
しばしば技巧的に過ぎるといわれる新古今の、
代表歌人である藤原定家。
その名歌の百首を編んで訳と解説を附した著作。
打ち消しの美学と余韻、現実ではなくイデア世界の描写、
時間推移までも読み込む言葉択び、などなど、
和歌に明るくない自分でもはっとするような和歌ばかりで、
800年前の和の繊細さ・藝術性に驚かされた。
・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
人は外部に規定される。
「学校」があるから生徒を演じ、「恋」があるから恋人を演じる。
そんな、普通の捉えられ方からの顛倒に人間の本質を見るのは、
経験主義ではヒュームの「知覚の束」であったり
サルトルの「l'être d'autrui」だったりする。
……とまぁ、そんな固い話は措いておいて、
『フェルディドゥルケ』は、うまいこと場の空気にあわせようとして
頑張るんだけど、やっぱり居心地が悪くて暴れちゃう、みたいな話。
それは「恋」に至ってすらそうだ。
恋する気持はしあわせの一語に尽きるということを知っていたので、幸せだった。
となってしまう。「恋をしていたので幸せだった」のではない。
恋をする者に幸せを強いるような暗黙の了解が至るところにあって、
主人公だけがそこを抜け出そうとしてもがき苦しみ続ける。
主体ってどこよ? そんな哲学的な主題を
グロテスクにパロディ化した小説として、自分は読んだ。
9.8.09
村上春樹『1Q84 Book1』『1Q84 Book2』
頭の中で村上の文学性にけりをつけられていないため、
ジョージ・オーウェルを意識した明らさまなタイトルも手伝い、
手に取ることを敬遠していた本新作。
いざ読み始めると、二三日で一気に読んでしまった。
これは純粋に面白い小説だった。
外枠には確かに『1984』があるかもしれない、
しかしその世界の有り様への疑問のおこりは、
むしろ『競売ナンバー49の叫び』を思わせたし、
カルト宗教への問題意識は、同作者のノンフィクションの
『アンダーグラウンド』を素地に見出せた。
チェーホフ、フレイザー、マクルーハン、その他さまざまな引用を
小道具として入れ込んじゃうあたり、巧い。
もはや、初期の村上春樹と同一人物なのかもわからない。
もっとも、こういう手合いの「解説」って、
何の面白みもないから、もうやめる。
でも、この作品は非常に面白いし、
バブル前、最後の輝きを誇った日本経済の裏で
誰も気づかないうちに進行した精神的な問題を
いくつか問いかけているように感じてならない。
特に、ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルは、
現代では匿名な多数の何がディストピアを生むのかという
鋭い指摘になっている。
それは匿名性に覆われた情報化社会か? メディアなのか?
あるいは、メディアを批判しようともその代替案を提示できずに
何に判断材料を求めればよいかわからずに保守に迷走するネット右翼?
あるいはその帰結がたまたま逆になったネット左翼?
ネタの尽きない面白い作品だった。
ジョージ・オーウェルを意識した明らさまなタイトルも手伝い、
手に取ることを敬遠していた本新作。
いざ読み始めると、二三日で一気に読んでしまった。
これは純粋に面白い小説だった。
外枠には確かに『1984』があるかもしれない、
しかしその世界の有り様への疑問のおこりは、
むしろ『競売ナンバー49の叫び』を思わせたし、
カルト宗教への問題意識は、同作者のノンフィクションの
『アンダーグラウンド』を素地に見出せた。
チェーホフ、フレイザー、マクルーハン、その他さまざまな引用を
小道具として入れ込んじゃうあたり、巧い。
もはや、初期の村上春樹と同一人物なのかもわからない。
もっとも、こういう手合いの「解説」って、
何の面白みもないから、もうやめる。
でも、この作品は非常に面白いし、
バブル前、最後の輝きを誇った日本経済の裏で
誰も気づかないうちに進行した精神的な問題を
いくつか問いかけているように感じてならない。
特に、ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルは、
現代では匿名な多数の何がディストピアを生むのかという
鋭い指摘になっている。
それは匿名性に覆われた情報化社会か? メディアなのか?
あるいは、メディアを批判しようともその代替案を提示できずに
何に判断材料を求めればよいかわからずに保守に迷走するネット右翼?
あるいはその帰結がたまたま逆になったネット左翼?
ネタの尽きない面白い作品だった。
5.8.09
高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
エピソードの断片とそれに対する徒然な解釈を織ってゆくような、
章立てをかなり区切ってゆくようなこの書き方って、
明らかに村上春樹の初期二短篇の影響を受けている。
もっとも、そのことと内容とは、あまり関係はない。
この文章は小説だが、あらすじを語るのは無意味というか無謀だ。
それでも知りたい人もいるかもしれないから、
一応書いておこう。こんな感じだ。
「さようなら、ギャングたち」が主人公の名前で、
その名の通り、ギャングたちと劇的な別れを告げる。
はい、これがあらすじ。
あらすじというか、あらすじ群の主な一本…?(笑)
この小説はとても文学的。というか、「文学」学的。
例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用を見つけて、
ちょっとテンションが上がった。
かつて読んだ同作者の『ジョン・レノン対火星人』よりは摑めたような気がする。
次は『優雅で感傷的な日本野球』を読もうかな。
章立てをかなり区切ってゆくようなこの書き方って、
明らかに村上春樹の初期二短篇の影響を受けている。
もっとも、そのことと内容とは、あまり関係はない。
この文章は小説だが、あらすじを語るのは無意味というか無謀だ。
それでも知りたい人もいるかもしれないから、
一応書いておこう。こんな感じだ。
「さようなら、ギャングたち」が主人公の名前で、
その名の通り、ギャングたちと劇的な別れを告げる。
はい、これがあらすじ。
あらすじというか、あらすじ群の主な一本…?(笑)
この小説はとても文学的。というか、「文学」学的。
例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用を見つけて、
ちょっとテンションが上がった。
かつて読んだ同作者の『ジョン・レノン対火星人』よりは摑めたような気がする。
次は『優雅で感傷的な日本野球』を読もうかな。
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