28.9.09

ジョルジュ・バランディエ『舞台の上の権力』

マツリゴトは象徴と想像力の集団妄想喚起であり、
合理性と大衆性と大規模さをまといつつ現代でもその本質は不変である、
といった内容。原題はLe pouvoir sur scènesで、
scènesの複数形が、権力の絶対性を相対化するがごとく皮肉っぽくてよい。
もとは叢書の一冊だったらしく、確かに筋立ては、
権力というものの演劇制をめぐって、
舞台装置、ハレとケ、ベネディクト・アンダーソン、マクルーハンが
溶かし込まれつつするすると進行してゆく、といったもの。
内容的にはさほど新しい発見はなかったが、読みやすく、表現が巧い。

しばしば引かれる例がよかった。もっとあれば楽しめたはず。
例えば、1561年のオメガングの祭(アントワープ)での出し物は
「戦争が惹き起こされるかどうかは、新たに作り出される経済条件の如何による」
という、すさまじい事実に題材を求めていた。
祭という非日常が日常を強化する場において、
戦争という、経済面でまったく祭祀と趣を同じくする事項をパロディ化しちゃう、
この事例は、もっと知りたい。
ロマンの謝肉祭の事例は、その存在は知っていた。
これの専門書があるはず。探してみたいとも思う。

中世から近代、現代へ移行する中で、
知識人が体制外から内部へと取り込まれてきた、という指摘があった。
むしろ現代は、科学信仰や合理性礼讃という意味で、知識人は完全に体制側にいる。
これは近代国家の形成時、象徴を操ることのできる人物というだけでなく
支配力の合理性に長けた人物を取り込んでいった、という人材発掘の転換点なのかもしれない。
あるいは科挙のように、国家が貴族制の壁を低くするとき、
あくまでも保つ敷居として知力の優劣で篩をかけたからか。

22.9.09

カール・ポランニー『経済と文明』

西アフリカのダホメ王国と、中立港ウィダについての、
詳細な文化人類学的レポート。社会史的でもある。
子安貝を通貨とした徹底的な管理通貨制では、
経済ではなくポリティックな姿としての市場や流通が現出している。
また、奴隷制による西欧諸国との貿易で制度や通貨が
どのように作用したかが描かれている箇所は、
交換=コミュニケーション(柄谷的には交通か)が
いかにして共同体同士の壁を克服しようとしたかの一例として読める。

子安貝は貨幣でありながら、その機能は純粋に交換手段である。
言い換えれば、貯蓄手段ではない。
金本位制であったヨーロッパから視ると稚拙かもしれぬが
(金はまさに財を貯蓄するための代表的手段である)、それは違う。
共同体内部でしか通用しないという点、
貯蓄というより交換を指向していると云う点は、
グローバリズムと均一化に抵抗しようとする
地域通貨そのものではないか。

読みながら、こういうことを思った:
貨幣の粘着性(貯蓄志向)を削ぐために
時間経過に依って価値が逓減する貨幣が有効、という説があるが、
それならば価値の逓減しない商品が本位の
通貨制度に移行するだけだ(例えば金とか)。

現在、一国一通貨が当然であるが、
身分制度を固定するための貨幣制度というものが
歴史的に存在した、と知った。驚きだった。
イヴン・バットゥータによると、14世紀のニジェールでは
太い銅線と細い銅線という二種類の貨幣が存在し、
その購買範囲に差があったのだという。
ハムラビ法典に記されていたところによると、
小麦で返済する借金と銀で返済する借金では利率が違った。
ではなぜ、一国一通貨がかくも徹底されるようになったのか。
これは私の想像だが、国という共同体の権力の増加によって
管理通貨制度が可能となった現在、
貨幣を複数設定することでお互いに相対化しあうことを、
防いでいるのではないか?
もちろん、身分制のない平等な社会、という建前もあろうが、
それは歴史的に後の話だ。

徹底された子安貝管理通貨制度では、
商品の値段すら王権が決定していたが、
西欧からの子安貝流入により、そのレートは一気に崩れた。
つまり、インフレになったのだ。
ポリティックな範囲から流通制度が分離して経済に変わる瞬間だ、と私は思う。
これは非常に注目しておくべき事項だ。
経済がもはや誰の手にも止められなくなった現在においては特に。

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G20で、トービン税の導入の是非が話し合われたとロイターで読んだ。
ぜひとも導入すべきだ。
それ以外に、ネーションステートが金融に
くびきをかける現実的な手段は、はっきり云って、ない。


ポランニーといえば『大転換』が有名だが、それは未読。
politiqueをポリティックと片仮名表記しているのは、
「政治的」だけでなく「政策的」とも含意させたいから。

21.9.09

関外から関内へ、横浜の多面

昨日まで三日間、連続してプールで泳いだ。
今日は休刊日、そう思い立って午后三時に出立。

保土ケ谷区岩井町の東トンネルを経て坂を上り、清水ヶ丘公園。
休日ののんびりした雰囲気で、家族も多い。
東を望んでも海面は見えるか見えないかだ。
坂を下り、市立横浜商業高校の脇を抜けて蒔田へ。
あとは大岡川に沿って平坦な道が続き、
バイパスをくぐれば吉田新田内となる。
坂の多い横浜で唯一、平地が続くところだ。

伊勢佐木へのんびりとペダルを漕ぐ。
道路はまっすぐで区画は条里のようだが、
街の雰囲気が大阪っぽい雑多な下町であることに気づいた。
休日の夕時前というのもあるのかもしれないが、
のんびりとした活気は天王寺のよう。いや、鶴橋か。
横浜がこんなにも親しみやすさをもって近づいてきたのは初めてだった。

関外から関内へ近づく。吉田新田内には二つ、視るべきものがある。
一つは黄金町。
旧青線地帯であり横浜一の麻薬地帯、人種の坩堝だったところだ。
いまでは浄化作戦が功を奏したか、面影は半ば消えている。
もう一つは関内の裏手の寿町。
東京の山谷、大阪の釜ヶ崎に並ぶドヤ街として知られる。
恥ずかしいことに、日雇い労働の街に踏み入れたのは初めてだった。
大阪に生まれ育ち、友人の親が「カマやん」の作者であるにも拘らず。

寿町は石川町駅からほど近い。
同様に、山手の高級住宅街も目と鼻の先だが、
中村川とその上の首都高によって断ち切られている。
寿町に入ると、まず初老男性の多さですぐにわかる。
ドヤの多さ、路上で寝ている人、酒の臭い。
ゴミ捨て場でゴミ袋の堆積に並んで蒲団が敷いてあったり、
路上での飲酒を禁じる看板が掲げてあるそばで地べたの酒宴をしていたりする。
これはカルチャーショックだった。
みながみな初老で、だらっとしている。
しかし責めることはできない。彼らは間違いなく、
高度経済成長を文字どおり背負って年老いていった。
思い出したのは、ある漫画での科白だった。
だいたいこんな科白だった。
「ほんまに資本主義が徹底されとったら、日本中が釜ヶ崎や」
(ありむら潜『HOTEL NEW 釜ヶ崎』)

関内へ抜け出る道はほんのわずかに上る。
埋め立て地ではなく本来の横浜村だった証だ。
横浜スタジアムでは阪神戦が終わったところだったようで、
あのユニフォームを着た応援の人々が散見された。
象の鼻パークを過ぎ、みなとみらいの海岸に沿って走る。
至るところ、滑稽なほどカップルが多い。何が楽しいのだろう?
何が楽しかったのだろう? という自問にもなった。

桜木町を過ぎ日産自動車新社屋を越え、
横浜駅を抜けて帰宅。横浜はあまりに人が多い。

13.9.09

宮坂宥勝『空海』、黒沢清『カリスマ』

・宮坂宥勝『空海』

四国遍路の予習として読み始めたのに、読み了えたのは今日になってしまった。
空海とその著作を中心に、あれこれの雑誌に寄稿された小論をまとめたもので、
統一感はなく話の重複がけっこうあって、
空海の入門書としては仏教史や用語に不慣れでは読みづらかった。
まぁ、概観できたからいいかな、とも思うが。
四国遍路の成立に関する記事は、実際に行っていただけあって、
場所や雰囲気等が実感でき、面白く読めた。


・黒沢清『カリスマ』

個の而立か集団の調和か。
相反する二者をめぐって外部が繰り広げる戦い。
重要なのは、排他的な一者をカリスマと名づけるのは外部だ、ということだ。
あるいは、カリスマと名づけられたから排他的な而立になるのかもしれない。
これは、薮池が桐山にカリスマだと云われたことと、最後の結末とを結びつけると、そうなる。
カリスマの死が集団の調和を乱すということなのか。
カリスマ、という語でこの映画を括ると、そういうことになる。
だが、薮池いわく、「森は森ではなく、木が一本一本あるだけだ」。
カリスマという幻想をめぐって周りが動くが、
その幻想そのものはあっけなく燃やされて果てる。そういうことだ。
だが…ならあの結末はどういうことなのだろうか?
直前の部長の携帯電話での問いかけは、意味を求めて虚しく伸びた腕のようだった。
それすらあっさりと受け入れられてこそ、
そういった二項対立(その極地としての現実-幻想)を越えた「カリスマ」だ、ということ?
え、じゃあ龍樹みたい。

12.9.09

五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』

新書版ではなく、ちくま学芸文庫版。

空間を区切り、装飾や機能によって用途や雰囲気を作り出す
という作業が建築である以上、
独特の精神世界や世界観を演出する必要のある宗教は、
その信条に一致した建築を志向する。
新宗教が、どのようにして、その世界観や思想と合一して
建築設計や都市設計を行ったかが、克明な調査で明らめられている。

宗教と建築の関係を論じて、議論は伝統宗教である仏教・神道の建築にも及ぶ。
特に、近代以降の神社建築における
木かコンクリートかを巡る議論は、近代と伝統がどう鬩ぎあったのか
知る上で、大変面白かった。
ナショナルなマツリの場として大正時代に建てられた明治神宮を基軸に
1940年の東京五輪が設計されたという事実は、
1936年の某五輪の実質機能と似通っていて非常に不気味。
植民地時代の朝鮮半島・台湾の神社も紹介されている。

アメリカのキリスト教右派の権化のようなモルモン教や、
タイのカオダイ教なども取材されていて、おもしろかった。
たぶん、建築雑誌の「カーサ ブルータス」より
遥かにお腹いっぱいになる。遥かに遠い話題だけど。

8.9.09

帰浜

帰浜!
やっぱ、ちょっと陽焼けした気がする。固より黒いけど。

さて、今回の遍路のテーマ曲は二つ。
一つはもちろん般若心経のラップ。心憎いです。



二つ目は、高知あたりでラジオからたまたま流れた曲。
MINMIの「シャナナ☆」。テンションええわー。聴きまくってる。



さて、昨日はミナミに行ってきた。大阪人やのに初の道頓堀。
難波からほんまにすぐやってことすら知らへんかった。
んで、日本橋と新世界を歩いて、天王寺から帰った。
このところの奔放ぶり、自分はまだ学生上がりどころか学生なんちゃうか。
まぁ、あかんことあらへんやろ!

7.9.09

びんづるさま

軽自動車で、四国八十八ヶ所霊場の通し打ちをした。
八月三十日に出立し、九月六日に帰宅。
うち投宿、車内泊がともに三度。

初日は明石海峡大橋を抜けて四国入りし、
第一の霊山寺から第十の切幡寺までを行う。
二日目は第十一の藤井寺から第二十三の薬王寺に至り
発心の阿波は終了。
三日目は室戸岬の最御崎寺から第三十四の種間寺まで参り
夜は高知市内を歩き、高知城を上れるところまで見学。
四日目は土佐市清瀧寺に始めて足摺の岬を経て
修行の土佐を過ぎ菩提の伊予で、さらに道を行った。
西予の明石寺(第四十三)を夜に拝し、
内子を通って久万高原へ。
翌日は早速、同町の大寶寺に始める。
今治市第五十五番南光坊にて五日目を終え、
松山市に戻って夕食と温泉。
六日目は泰山寺から、伊予最後の第六十五番三角寺。
七日目の雲辺寺より涅槃の讃岐に至り、
空海生誕の善通寺にも参拝。
八日目、七十八番郷照寺から大窪寺にまで行い、
遍路の旅は無事に了った。

旅程をこうして綴るは易いが、各院どれにも思いがある。
山深くの箇所があれば同じ境内に二箇所を通ったり、
駐車場の場所に迷ったり、乱暴な道行きもあった。
しかし、少なくない出会いや発見もあった。
ここには書けない。多すぎる。

自分にとって、今回の遍路は巡礼というより旅だった。
不思議な体験も、信仰の芽生えもなかった。
だが、全箇所を廻るという唯一の目的を達して
「還俗」した自分が、これから(大文字での)旅で何ができるか。