19.10.09

風の墓

思いつきで午后を自転車で巡る。
そうやって、昨日は総持寺、今日は本牧へ遊んだ。

国道十六号を南下して磯子から金沢文庫まで走ろうと思ったが、
廻れ左をして本牧を新山下まで廻った。
途中、イスパニア通りに沿って半ば廃墟となったマイカルを貫き、
本牧山頂公園へとペダルを漕いだ。

本牧の緑の多さは、三渓園とこの公園によるのだろう。
横浜村の南の高台で、昔は景勝地だったようだ。そのため敗戦後は接収された。
見晴るかせる海は京浜工業地帯のコンビナート群で、
巨大なクレーンが連なり、おもしろいといえばおもしろい。

コンビナートと海に囲まれながらも、本牧は観光地とは遠い静かな住宅地だ。
公園の山頂からは、横浜だけでなく丹沢や富士山が臨める。
もちろん、工業地にぐっと狭められた東京湾も。
山頂の丘は、空が地に捨てた澱みのようだった。

14.10.09

ラフマニノフの鋭利さ

『パガニーニの主題による狂詩曲』でもっとも有名なのは第18変奏だが、
私はあまり好きではない。
ロマンチックすぎるきらいのせいでもあるが、
第19変奏からイ短調になって一気に駆け抜けつつ展開されてゆくピアノの鋭利さと
それを引き受けつつ盛り上げるオーケストラの脇役に徹する名脇役ぶり、
これが毒を秘めていて、文字どおり体が痺れる。
第18変奏は、その直後の美しい裏切りの前座として置かれた楽園なのではないか。
そして第19変奏からの失楽園が、その猛々しさゆえに耳を魅了するのではないか。

ラフマニノフはこのように、心地よい痙攣が身を走る経験だ。
細やかにメロディーが散りばめられたと思うと、
一転して叩きつけるような荒々しさが場を覆う。
西欧クラシック音楽の細やか一辺倒を
大海原のさざ波として呑み込んでしまうかのようだ。

8.10.09

田川建三『イエスという男』

『体制は、その人物を偉人として誉め上げることによって、
 自分の秩序の中に組みこんでしまう』。
そうして、時代の秩序に組み込まれてしまった、時代への反逆精神は、
もはや単に聖なる真理と化してしまう。
イエスとはそのような人物であった。
決してメシアでもなく聖人でもなく、
単に体制のドグマを批判したアツい男だっただけだ──
このような視点から、徹底して史的イエスのありのままの姿を探る。

ユダヤ教に雁字搦めになった生活を批判し、
「幸せって、もっとささやかなものだよね」と云っただけの男、
イエスはそういう奴だった。
それだけのことだ、しかしキリスト教という巨大勢力を前に、
こんなことが云えるというのがすごい。
実際、田川は国際基督教大学を、イエスを脱・聖性しようとしたからか、
不当に解雇されている。

原点回帰、意味ずらし。
この手法こそが知性だと、私は思う。
マルクス主義に対する『マルクスその可能性の中心』しかり、
大江健三郎『万年元年のフットボール』に対する
村上春樹『1973年のピンボール』しかり。

5.10.09

浅田彰のTVEV BROADCASTを観ながら



二項対立の収斂・解消という点は、私が高校生の頃あたりから、
自分の問題意識としてずっと保っていたことだ。
その意味ではやはり、私は文学ではなく
数学へ進路を定めるべきだったのかもしれない。そう思うのは、
チューリングマシンの自己停止問題が決定不能だったり
上の映像で浅田彰が指摘するような、
制度と中身が不可分なフラクタルの可能性を
見せつけられたりするときだ。
しかし私は当時、情報工学を進路としてほぼ確定しており、
文学志向はそれへのアンチテーゼとして立ち現れてきた。
文学-工学の二項対立に陥っていたわけだ。
問題意識に呑み込まれて気づきもしなかったというのは、あまりに愚かしい。

そして現在私は、この二項対立というドグマに対して、
文化人類学的なアプローチから挑もうとしているような気がする。
それは日常とカーニヴァルという一見すると対立する二者が
実は相互補完的だったり、同一だったり、そんな見方を提供してくれる。
構造主義は、内実が構造的であるという指摘がフラクタルに近しいような気がするし。

大学ではイヨネスコの『犀』を研究した。
私はこの作品を、二項対立が渦となって持続するストーリーとして位置づけ、
ローレンツ・アトラクタを導き出した。
だが、これは渦を巻きながらも二つの軸を収斂できない。
言葉が二項対立性を強く持ち合わせている以上、
言葉を記述言語とする人文社会科学がこれを脱するのは
かなり難しい要求なのではないか、と感じている。

だが、数学であっても概念等は強く自然言語に依存しているので、
自然科学と人文社会科学に概念の類型は多い(近似とミメーシス、とか)。

…なんか、自分でも話の収拾がつかなくなってきたので、記述をここで終わる。
考えたことの羅列のメモだし、誰も読まないのだから、
固よりうまくまとめる必要はないのだが。

4.10.09

フランシス兄弟『おいしいコーヒーの真実』、クリス・ペイン『誰が電気自動車を殺したか?』

・フランシス兄弟『おいしいコーヒーの真実』

飲食店の原価率は3割程度とされるが、コーヒーのそれはたったの2%ほどで、
焙煎やらを考えても付加価値が9割ほどにのぼるとなると、
それは付加価値ではなくもはや中間搾取だ。
コーヒーの仕入れ経路はネスレなど4社の寡占だ、というのも、
比較的知られた話。
この映画は、それがアフリカの貧困としてひどく災いしている実態と
フェアトレードの経路を探るエチオピアの農協のタデッセの活動を描く。

コーヒーを片手に(主にスターバックスで)くつろぎ、
バリスタやらカフェやらがそれをファッションとしてもり立てる姿が、
しばしば挿入される。
中間経路を省いた取引を探って世界中を出張するタデッセがしばしばその脇を通り、
両者が絡みあいつつすれ違う、その撮り方が象徴的だった。

ヨーロッパではよく見かけたものの、
まだ日本ではあまり見当たらないフェアトレードの製品。
安いことを善と考える短絡な消費者が
イオンやウォルマート(西友)を繁盛させる現状では、
フェアトレードを買い求めようと意識するのはまだまだ先だ。


・クリス・ペイン『誰が電気自動車を殺したか?』

上の映画がもの静かだった一方、
こちらは民放のドキュメンタリーのようによくしゃべる。

90年代、GMのEV-1を皮切りに電気自動車が製造され、
すでに実用されていたという事実を初めて知った
(いまだガソリンから抜け出せないハイブリッド式が
 最近ようやく出始めたぐらいだから、もっと先の技術なんだと思い込んでいた)。
そして、石油依存を特徴とする現在のエネルギー産業の構造を
大きく塗り替えうるという可能性は、
オイルメジャーにとっては脅威だった。
だから、ロビー活動によって電気自動車を殺した、と
だいたいこんな感じの映画だった。
アメリカの政治と大企業のべったりの関係の典型事例のようだったし、
技術を社会に結びつける、経営や世論や法といった枠組みが
いかに簡単に、その技術の首を絞めることができるのか、という実例でもあった。
そしてエンディング。やっぱりアメリカ万歳、自由万歳、でハッピーに終えちゃう辺りが
アメリカらしいというか。