5.10.09
浅田彰のTVEV BROADCASTを観ながら
二項対立の収斂・解消という点は、私が高校生の頃あたりから、
自分の問題意識としてずっと保っていたことだ。
その意味ではやはり、私は文学ではなく
数学へ進路を定めるべきだったのかもしれない。そう思うのは、
チューリングマシンの自己停止問題が決定不能だったり
上の映像で浅田彰が指摘するような、
制度と中身が不可分なフラクタルの可能性を
見せつけられたりするときだ。
しかし私は当時、情報工学を進路としてほぼ確定しており、
文学志向はそれへのアンチテーゼとして立ち現れてきた。
文学-工学の二項対立に陥っていたわけだ。
問題意識に呑み込まれて気づきもしなかったというのは、あまりに愚かしい。
そして現在私は、この二項対立というドグマに対して、
文化人類学的なアプローチから挑もうとしているような気がする。
それは日常とカーニヴァルという一見すると対立する二者が
実は相互補完的だったり、同一だったり、そんな見方を提供してくれる。
構造主義は、内実が構造的であるという指摘がフラクタルに近しいような気がするし。
大学ではイヨネスコの『犀』を研究した。
私はこの作品を、二項対立が渦となって持続するストーリーとして位置づけ、
ローレンツ・アトラクタを導き出した。
だが、これは渦を巻きながらも二つの軸を収斂できない。
言葉が二項対立性を強く持ち合わせている以上、
言葉を記述言語とする人文社会科学がこれを脱するのは
かなり難しい要求なのではないか、と感じている。
だが、数学であっても概念等は強く自然言語に依存しているので、
自然科学と人文社会科学に概念の類型は多い(近似とミメーシス、とか)。
…なんか、自分でも話の収拾がつかなくなってきたので、記述をここで終わる。
考えたことの羅列のメモだし、誰も読まないのだから、
固よりうまくまとめる必要はないのだが。
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2 件のコメント:
あ、収集つかなくなっていたのか。それすらもわからなかった非文学的な私。
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