28.3.11

島田雅彦『天国が降ってくる』

物語は堕罪府(太宰府か)の、栄華を極めた末に落ちぶれた葦原一家。
太宰府の出自や葦原中国を思わせる名字は神話の日本を思わせる。
例えば、父親・美男は、葦原醜男(大国主)さながらの名前。
真理男は最後に言葉を能記と所記で別々に意識し、生きたために、
とうとう言葉の発露そのもののようなコンピュータになってしまう。
これは言代主の寓意なのだろうか。

だが、だから何だというのだろう。
物語の登場人物の名前を神話から採ると、物語そのものがどうであれ、
神話の寓意あるいは風刺として読まれざるを得なくなる。
神話の物語は細部や感情を削ぎ落とされ、あくまで 叙事的であるために、
寓意の元ネタとしてはかなりの自由度で可変可能なのではないか。
東京に舞台を移しても、ダブリンを描いても、
語りそのものだけでなく深層の神話との二重性で読まれてしまうのだ。
神話との重ね合わせが意味を反響させあう面白さもまた文学だが、
この作品はそういうものではない気がする。
ストーリーは現代にぽっと出てくるには異形だけれども、
でも神話というような創造的な機能とは正反対なのだ。
結局、何を書きたかったんだろう? 血の因果か、言葉の破天荒か?

意味を気にするような文学ではないのだろう。
そうすると、極限までエゴの肥大した主人公が、
まるでメーターが針を振り切って毀れるように、
意識を乗せる言葉そのものを暴走させる物語、とでも要約すればよいか。

22.3.11

鹿島田真希『ピカルディーの三度』

好きということやその他の愛憎をめぐる短篇集。
自分としては、「万華鏡スケッチ」の細部ばかり輝く語り方が面白かった。
他は、いかにも新人作家の短篇集、という感じ。

20.3.11

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

イシグロの回想的な文体には一つの明確なテーマに沿って組み立てられた語りと、
もう若くない語り手の静謐さがある、そう思っていた。
そうした先入観があったから、読み始めて違和感があった。

まず、テーマがなかなか見えてこない。漠然と道筋の定まらない感覚があった。
まず、イギリスの田舎の現在と、回想される長崎の保守色の落差だし、
主人公の悦子に対する、佐知子の圧倒的な立ち位置の違いにもなる。
会話では共鳴のない不協和音も痛く響く。

だが途中から、かなり大きな物語を包んで、種々の対比から一本の筋道が見えてくる。
どう幸せになるか、自分の意思を貫くか、というテーマが。
それが現実や絆のしがらみでもがく、物語全体を包む暗さが、回想にしては重かった。

作家カズオ・イシグロは石黒一雄ではない。
だがこの暗さ、敗戦後の長崎の時代の空気と風潮、
この、どうしようもないまま日本的と結局呼ぶものの描写が、
とても日本文学の一作品に思われた。
おそらくこの小説の描写するテーマが描かれる時代を下れば、
そのまま『円陣を組む女たち』になるだろう。

15.3.11

アントニオ・タブッキ『イタリア広場』

ファシスト、第二次大戦、レジスタンス、民主化、労働運動──
物語はイタリア激動の時代を貫き、
タイトルであるイタリア広場での出来事がそれを象徴する。
ただし、時代背景の説明は極力まで切り詰められ、
世界史の一般常識を欠いてはおそらく漠然として分からないだろう。

エピソードの堆積は『百年の孤独』と同じように家系図で纏め上げられている。
だが、饒舌ではない。むしろ、一つ一つ語っては黙り込むように、
ほんの短い物語の羅列が、大きな一本の物語の進行となっている。
とてもゆっくりだし、断片的で、その一つ一つが寓話のよう。
叙述が無駄な時間を越え、描写はほんの一言二言までに短く、
それがとても豊かなイメージを生む。
これはすごい、と思った。

2.3.11

井上ひさし『一週間』

500ページ超の長篇、しかも井上ひさしの最期の作品。
言葉遊びも豊潤、読みやすくて、一週間もかからなかった。
章だてごとに、前章までの内容をわずかに復習するあたり、
「小説新潮」連載のまま手直しできずに亡くなったためだろう。
他、日本人の堪能なロシア人がぞろぞろ出てくるといった設定を除けば、
舞台装置もストーリーも面白いし、飽きさせない。
何より、背景や設定のために一時代の新聞を全部読んでしまうほど周到だから、
仕入れた智識はぶちまけんばかりにつぎ込まれている。
そのなかには知るところや知らなかったことが多々あって、
個人的には、それも興味深かった。

井上ひさしには、東北大経済学部での講演会で拝見したことがある。
魯迅の話を即興で(!)されていて、
『吉里吉里人』を読んだ中学生の頃から感じていた博識の印象を強めた。
『一週間』にも魯迅がちょっとだけ出てくる。
太平洋戦争でのぼろぼろの敗戦の原因を
無脳そのものと化した当時の日本の指導者に帰するのは、
『戦艦大和の最期』の吉田満から伊東乾まで幅広いが、
井上ひさしの場合はそれに加えて、特権階級や悪政への糾弾と、
民衆への暖かいまなざしがたっぷりと加わる。
そして、シベリア抑留を描きつつもコミカルな文体。
この文体だからこそ、井上ひさしらしく毅然と論壇に立てたんだろう。
あらためて、合掌。

シベリア抑留の際に(日本人将校による)関東軍が(日本人)捕虜に
収容所内圧政を強いていたこと、これは知らなかった。
井上ひさしだから誇張はあるかもしれないが、
こうも大胆に持ち出せる設定とは思えない。
鍵となるレーニンの手紙に書かれた秘密だって事実なのだし。
満州国のソ連軍占拠時、ゴリゴリの天皇主義者が掌を返したように
共産主義者になったという変わり身の早さは、よく聞くところだ。