30.5.11

朝吹真理子『流跡』

書物の文字の流れてできた人が流れ流れて辿る人生(?)が綴られる。
途中、電車でその書物を読んでいたであろう人物の日常も挟まり、
そこにも、文字の流れてできた陽気な虚妄が混じり込む。
人生も文字のようにばらばらな原子となって流れ流れて百万回生きる、
それでは書物の語りが現実に溶けて生きるのと何が変わろう、
この奇妙な文学肯定は、味だとしかいえない。

文字がばらけてできた流れであれば、
もとの配列の謂いとしての文学を再構成できるんだろうか。
そこまで"作者の意図"が及んでいたら凄まじいものだが。

歌舞伎を研究する大学院生らしい饒舌にこじゃれた文体も、テンポよくて読みやすい。

小川国夫『悠蔵が残したこと』、小林正樹『切腹』

・小川国夫『悠蔵が残したこと』

短篇集・角川文庫。
作者の故郷・藤枝とその近辺を舞台とする短篇群に加え、
『アポロンの島』のような南欧バイク旅の短篇が少し。
港町での若い男女の話を女性の視点から描いた作品がいくつか続き、
そうした試みで書かれたいくつかの作品なのかもしれない。
ゆっくりした少し暗い日常の中でさざ波のような変化が、
情緒的な文体で決して感情が荒げずに綴られていて、
それが静岡の温暖で豊かな風土とも合致しているように感じられる。
作品は違えど、同じ風土は同じような色と風合いで纏められている。
軽便鉄道と大井川がときどき舞台としてちらちらするし、
サッカーの盛んな土地柄から、サッカーの風景も映り込む。

小川国夫は、心理描写の鋭さと文体の的確さにはっと息を呑むところがある。
どこを引用しても、それが短歌の一首のように豊かにふくらむ。

 骨洲港が白い単調な渚を、わずかに区切っていた。少女時代、彼女にはその港が視野の中心にあった。朝たまたま浜に来て、鷗の群にまといつかれ輝いている港を見て、彼女は心を引き立てられたことがあった。そこには物語がある気がした。彼女の少女時代そのものが、いくぶん物語だった。[…]
 しかし、もうそうではなくなっていた。骨洲の港すら、いかにも小さく、魚を揚げても排けない土地の港らしかった。大井川の南にとりついた、一個の牡蠣殻といったところだった。(p.210「河口の南」)

この描写の謂いは、どんな大人の心にも大切にしまい込まれているはずだ。
生まれ育った世界が閉じて満たされ、しかしもうそうではない、という郷愁。
幼い世界は、地図上では単なる一集落にすぎない。
海辺も山中も下町も、戦後は団地も、そこに生まれ育てば同じこと。
地図には還元できない。


・小林正樹『切腹』

1962年、松竹映画。
武士道とか侍魂なる建前が嫌いな自分にとって、
まさにそのアンチテーゼが作品の主題であるため、
とても面白く観ることができた。
二時間ほどのうち後半で、ことの繋がりがわかってきて、
一気に面白くなる。
構成の綿密な映画とはこういうもの、の好例だろう。
基本的に井伊家の庭先から舞台が動かないので、
演劇作品にしてもらえれば好いと思う。

16.5.11

三好十郎「胎内」

3.11以降の状況についてヒントにすべき作品、として、
ある文藝評論家から教えてもらったので、読んだ。

ブローカー業でせしめた金とともに戦時中に作られた洞窟へ逃げ込んだ花岡と村子、
そして戦時中に動員されて掘った洞窟へ戻ってきたインテリの佐山。
この三人が閉じ込められ、脱出を試み、衰弱し、果ててゆくまでの戯曲。
極限状態で生きる意味と行きた意味、そして戦争で変わった人生を語り、

とうとう三人とも衰弱し切った最後の場面は、静かで派手さはないが印象的。
佐山と村子の互いに無関係な譫言がもつれ合ってゆく哀しさと、
花岡の、孤独に札束を数えながらやがて
掌中の紙切れの意味が分からなくなる孤独な影が、
三人揃って最後の蝋燭の光に揺れる。
慾を隠さず女と金とともに生きてぎらぎらした花岡、
戦争で人生が狂い、強い男に引かれながらも前の夫を忘れられない村子、
動員されて弱い身体に鞭打ち、戦後は腑抜けとなったインテリの佐山、
戦争を経た三者三様、洞窟の中ながら結局は和することのなかった三人が、
最終的には同じ身体の影をゆらゆらさせて死ぬ。
この結末が、彼らそれぞれの生きる意味や登場人物分析より先にまず作品の意だろう。

50年代後半から60年代のどす黒い閉塞感があるが、初出は1949年の「中央公論」。
戦争を生き抜いて間もないのに、なぜ命を粗末にするがごとく三人が死ぬのか。
戦争を経て生まれ変わった、何もかも変わった、というように、
過ぎた嵐としての戦争がたびたび言及される。
一方で、人はみな死ぬ、洞窟を出ても閉じ込められている、といった諦観もある。
両方の間で揺れて、どちらともつかないまま自分の納得へもぐり込んでゆく。
この目の逸らし方を作者は指摘したかったんだろうし、
時代的解釈を越えて作品が持つ普遍性なんだろうと思う。

松宮秀治『ミュージアムの思想』

世界遺産とはもとより特異な一文化の際を保存するものだったが、
その考え方があらゆる差異への視点と変わり、
どんどん世界遺産が増え、やがては世界のあらゆる差異が
保護区に入れられて、墓として聖別されてしまうのではないか。

そんな具合で、美術館、博物館、図書館、資料館、等といった、
蒐集と保存をする一機関という思想への疑問は、個人的に2年ほど前から持っていた。

一方で、蒐集・保存・開陳というミュージアムの思想は、
すべての世界史的事象が相対化されてリアルとしては
日常近辺しかなくなってしまうという90年代とゼロ世代以降の文学世界に対し、
聖域創出というアンチテーゼになるかもしれない。
では、そもそもミュージアムとは何なのか?
この疑問について歴史的な背景を知っておこうと、この本を手に取った。
しかし嬉しいことに、歴史的な経緯だけでなく非常に多くの示唆を与えられた。

ミュージアムとは、公衆に開かれ、社会とその発展に奉仕し、かつまた、人間とその環境との物的証拠に関する諸調査を行い、これらを獲得し、それらを保存、報告し、しかも、それらを研究と、教育と、レクリェーションを目的として陳列する、営利を目的とせぬ恒常的な一機関である」(ミュージアム規約、UNESCO。p.260より孫引き)
一見すると普遍的に思えるこの思想がヨーロッパ的枠組みで発展し、
ヨーロッパ的な思考秩序の下にある、という考え方が、歴史軸に沿って述べられる。
ヨーロッパ中世の二重権力構造(教皇と世俗君主)から抜け出すため、
世俗君主が自らの正統性や偉大さを固持するための蒐集物を集めた部屋である
Kunstkammer(Kunst=art, kammer=chambre)が、始まり。
その際、画家その他芸術家は単なる職人(art-ist、技芸人)だった一方で、
その根本たる思想家はパトロンからの待遇が破格だった。
神話創出と正統性主張の根拠という役割を保持したまま、
近代以降にはそこに公共性が付与されて公開されることで、
職人に過ぎなかった芸術家が、ドイツ古典主義で徹底的に神格化されて今に至り、
民族意識・国民意識形成に利用される。
また、ミュージアムは有益なもの(動植物など)を持ち帰り、
薬学などに活かすための拠点ともなった。

大枠の流れとしてはこんな感じなのだが、
その論拠や思惟がすばらしい。
例えば、アジアでミュージアム的思想が現れなかった理由や、
大航海時代のアメリカ"発見"が、ヨーロッパ外来種の雑草と、
じゃがいもやトマトなどの有用な植物の不等価交換として捉えられるという思考、
F.ベーコンの著作で示される知の理想型が科学の実用性提唱を示唆するなど、
世界史の読み直しとして非常に面白かった。

5.5.11

石田梅岩『都鄙問答』、ジョン・ダイガン『トリコロールに燃えて』、リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』

・石田梅岩『都鄙問答』

1935年初版の岩波文庫版で読んだ。
註釈も解説もない漢文混じり旧仮名遣いは薄学の徒にはしんどく、
およそひと月弱もかかってようやく読了。
ただ、内容も梅厳の語りも平易だ。
問答のタイトルどおり、客の問いに梅岩がひたすら答える。
愚かな客に対しても手を抜かず、僧侶や読書人の問いへも物怖じせず、
ひたすら己の哲学を開陳し、そこから回答を見出だす。
梅岩の心学たる思考が、あくまで具体的な形を取って透けて見える。
町人に対する実際的な学問という意味で、問答の形式はわかりやすい。

神儒仏のどれを切り口としても達するところは一つの倫理学、と説く
巻之三(性理問答の段)は、特に興味深かった。
ほかのどこ箇所を読んでも感じられることだが、
要は何の謂いか、という、言説に対する根源的な問いが"心"学たる所以が、
もっとも壮大で深く貫かれている。
また、西田哲学的、東洋的な、差異を見ない無批判な統合も一方で感じた。


・ジョン・ダイガン『トリコロールに燃えて』

両大戦間期から第二次大戦を経た、ギルダ、ミア、ガイの三者の生き様の絡みあい。
ギルダが実はナチス軍へのスパイ活動に従事していたというのは、附会に思われた。
ナチスへ強力してしまう登場人物が主人公にいてもいいじゃないか。
どうして主人公は常に免責されるのだろう。


・リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』

おもちゃで遊ぶ年齢ではなくなってから、という設定から、観たいとは思っていた。
勧善懲悪っぽい二元論がストーリー展開の迅速さのために導入されていた感が否めないが、
内容としてはハリウッド的な冒険譚で、楽しめて観ることができた。
それにしても、おもちゃというのはみな個性的すぎるほどに個性的で、
アイデンティティが出来上がっているなぁ。
そのための設定や背景があってこそのキャラクターだから、ということか。