その考え方があらゆる差異への視点と変わり、
どんどん世界遺産が増え、やがては世界のあらゆる差異が
保護区に入れられて、墓として聖別されてしまうのではないか。
そんな具合で、美術館、博物館、図書館、資料館、等といった、
蒐集と保存をする一機関という思想への疑問は、個人的に2年ほど前から持っていた。
一方で、蒐集・保存・開陳というミュージアムの思想は、
すべての世界史的事象が相対化されてリアルとしては
日常近辺しかなくなってしまうという90年代とゼロ世代以降の文学世界に対し、
聖域創出というアンチテーゼになるかもしれない。
では、そもそもミュージアムとは何なのか?
この疑問について歴史的な背景を知っておこうと、この本を手に取った。
しかし嬉しいことに、歴史的な経緯だけでなく非常に多くの示唆を与えられた。
「ミュージアムとは、公衆に開かれ、社会とその発展に奉仕し、かつまた、人間とその環境との物的証拠に関する諸調査を行い、これらを獲得し、それらを保存、報告し、しかも、それらを研究と、教育と、レクリェーションを目的として陳列する、営利を目的とせぬ恒常的な一機関である」(ミュージアム規約、UNESCO。p.260より孫引き)
一見すると普遍的に思えるこの思想がヨーロッパ的枠組みで発展し、
ヨーロッパ的な思考秩序の下にある、という考え方が、歴史軸に沿って述べられる。
ヨーロッパ中世の二重権力構造(教皇と世俗君主)から抜け出すため、
世俗君主が自らの正統性や偉大さを固持するための蒐集物を集めた部屋である
Kunstkammer(Kunst=art, kammer=chambre)が、始まり。
その際、画家その他芸術家は単なる職人(art-ist、技芸人)だった一方で、
その根本たる思想家はパトロンからの待遇が破格だった。
神話創出と正統性主張の根拠という役割を保持したまま、
近代以降にはそこに公共性が付与されて公開されることで、
職人に過ぎなかった芸術家が、ドイツ古典主義で徹底的に神格化されて今に至り、
民族意識・国民意識形成に利用される。
また、ミュージアムは有益なもの(動植物など)を持ち帰り、
薬学などに活かすための拠点ともなった。
大枠の流れとしてはこんな感じなのだが、
その論拠や思惟がすばらしい。
例えば、アジアでミュージアム的思想が現れなかった理由や、
大航海時代のアメリカ"発見"が、ヨーロッパ外来種の雑草と、
じゃがいもやトマトなどの有用な植物の不等価交換として捉えられるという思考、
F.ベーコンの著作で示される知の理想型が科学の実用性提唱を示唆するなど、
世界史の読み直しとして非常に面白かった。
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