3.11以降の状況についてヒントにすべき作品、として、
ある文藝評論家から教えてもらったので、読んだ。
ブローカー業でせしめた金とともに戦時中に作られた洞窟へ逃げ込んだ花岡と村子、
そして戦時中に動員されて掘った洞窟へ戻ってきたインテリの佐山。
この三人が閉じ込められ、脱出を試み、衰弱し、果ててゆくまでの戯曲。
極限状態で生きる意味と行きた意味、そして戦争で変わった人生を語り、
とうとう三人とも衰弱し切った最後の場面は、静かで派手さはないが印象的。
佐山と村子の互いに無関係な譫言がもつれ合ってゆく哀しさと、
花岡の、孤独に札束を数えながらやがて
掌中の紙切れの意味が分からなくなる孤独な影が、
三人揃って最後の蝋燭の光に揺れる。
慾を隠さず女と金とともに生きてぎらぎらした花岡、
戦争で人生が狂い、強い男に引かれながらも前の夫を忘れられない村子、
動員されて弱い身体に鞭打ち、戦後は腑抜けとなったインテリの佐山、
戦争を経た三者三様、洞窟の中ながら結局は和することのなかった三人が、
最終的には同じ身体の影をゆらゆらさせて死ぬ。
この結末が、彼らそれぞれの生きる意味や登場人物分析より先にまず作品の意だろう。
50年代後半から60年代のどす黒い閉塞感があるが、初出は1949年の「中央公論」。
戦争を生き抜いて間もないのに、なぜ命を粗末にするがごとく三人が死ぬのか。
戦争を経て生まれ変わった、何もかも変わった、というように、
過ぎた嵐としての戦争がたびたび言及される。
一方で、人はみな死ぬ、洞窟を出ても閉じ込められている、といった諦観もある。
両方の間で揺れて、どちらともつかないまま自分の納得へもぐり込んでゆく。
この目の逸らし方を作者は指摘したかったんだろうし、
時代的解釈を越えて作品が持つ普遍性なんだろうと思う。
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