10.10.11

矢部宏治『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』

9月に行った沖縄県平和祈念資料館の売店に平積みされていた本。
この本は単行本でも新書でもなく、観光ガイドと銘打たれている。
写真家の須田慎太郎も共著者で写真に多くのページが割かれているから、
写真集であるともいえる。

平和記念資料館は糸満市摩文仁の丘の、平和記念公園内にある。
沖縄戦は1945年3月末の慶良間諸島、数日後に本島中部の北谷に米軍が上陸し、
6月に最終決戦地となった南部で23日に牛島司令官が自決するまでの戦いで、
沖縄民は激しい戦闘だけでなく、窮鼠状態の旧日本軍に蹂躙された。
その記憶を重厚に残している。

──と、それまでは考えていた。
しかし、平和記念資料館に収められた内容は、それだけではない。
明治期に沖縄県設置によって琉球王国が廃止されて以降、
社会的に名字改名を強要し、本土の日本人より低く見た待遇といった戦前の差別から、
米軍指揮下の琉球政府の非民主主義的な施策、
その軍事占領から脱するための本土復帰への願いが
軍事基地付きで果たされるという裏切りと失望、
そして、この基地問題の解決と真の平和を祈る毅然とした態度──。
この沖縄の近現代史が、日本国でも日本人でもなく沖縄・沖縄民の立場として、
毅然と語られ、決して忘れまいとする態度が、
この平和記念資料館から得た印象だった。

平和記念資料館にて。方言弾圧は明治期に日本中で行われたが、改名を伴った例を他に知らない。

本土復帰(1972年5月15日)当日の新聞。“基地つき復帰”の苦悩が見える。

帰浜後にこの本を入手して読んだ。
沖縄本島を中心にして、沖縄に散りばめられた基地を、
美しい写真とともに紹介している。

知らないことだらけだった。
1953年の来航直前にペリーが沖縄を占領目的で視察していたことをはじめ、
ハーグ陸戦条約の「掠奪はこれを厳禁とする」に違反して没収した土地や財産に
米軍基地は築かれていること、
1972年まで核兵器が最大1200発も沖縄に持ち込まれていたこと、
沖縄本島全土の軍施設を結んでパイプラインが敷かれていること、
沖縄の基地はアメリカ本土の基準を満たさない危険な運用をなされていること。
まだまだある。
でも、そういった軍事的なことだけなら、どれだけよかったか。

戦後、全面講和を望んでいた世論は、朝鮮戦争の緊迫した政局で煽られた後、
GHQ下の日本政府は1951年のサンフランシスコ平和条約(多数講和)へこぎ着けた。
そしてそのたった6時間後、吉田茂は日米安保条約に調印した。
アメリカの軍部が9日で書き上げた日本国憲法、
サンフランシスコ平和条約、そして日米安保条約。
この三位一体が、反共の防波堤としての日本の戦後の地位を気づいた。
1955年にCIAの多額の支援を受けて、左派に対抗するために自民党が結成され、
日本テレビが、アメリカ式娯楽を放送する日本初の民放として、
これまたCIAの資金援助で占領終了の1953年に誕生。
55年体制は、日米安保と日本国憲法の矛盾を、
日米地位協定とその厖大な密約で接ぎ木して、
単に経済発展にだけ関わる脱政治化された政治体制、としてまとめている。
いや、砂川事件と伊達判決(1959年)によって、
日米安保条約が最高裁に優越するという、まさに異常な事態を常態化した。
そしてそのまま、基地問題に手を打てないまま鳩山首相が辞任するなど、
この米軍至上主義は、自民党政権を離れてなお続いている。

この絶望的な状況が語られた後、一縷の希望が紹介される。
憲法に外国軍駐留を盛り込んで、見事に真の独立を果たしたシンガポールの例だ。
世界情勢だのアメリカとの同盟関係だのではなく、
基地問題という最大の棘を、直視すること。
それこそが、今なお続く沖縄の苦痛に目を向け、
これからの世界と日本の方向性を決めることだ。
その勇気が今の日本にあるとは、あまり思えないけれど。
しかし、来るべき時のために、そっと勉強しておこうと思った。

また、アメリカの法治と軍部の二律背反性が、ときどき馬脚を現すようだった。
日本が軍部を法治できなかったのと同じように、
現代のアメリカが軍隊の自己増殖を
民衆レベルではもはやどうにもできなくなっているのではないか。

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